ミュージカル刀剣乱舞『陸奥一蓮』備考録

・三日月とアラハバキ神

三日月と 阿弖流為と母禮と話す三日月はアラハバキと呼ばれている。アラハバキ神を調べたら、アラハバキ神に使える式神も出てきて、モムノフと言うそうだ。モムノフ?どっかで聞いたな?物部に近いな?さすがにこれは強引か…と思ってたら、モムノフは元々は物部が語源となってるそうだ。ヒョエッと声出た。

・三日月と鶴丸の立ち位置の差

三日月と対比に出てくる鶴丸。過去を追う三日月に現実を追う鶴丸。本当に対極にいる二振りである。死者と敗者に寄り添う三日月に、あくまでも史実に基づいて行動する鶴丸。三日月と鶴丸の違いというのは、死を迎えるだろう人々対する接し方である。三日月は触れることを厭わない。対して鶴丸は会話はするものの、絶対に触れようとしない。パライソでもそうだった。一貫している。そして今回の山姥切国広と話していた時に出てきたセリフでそれは確信に変わった。
「それじゃ、人数分しっかり死んでもらおうかね!」
だがそういう厳しい態度を表に出すのは古参仲間の山姥切国広や一番弟子と思われる加州清光やたぶん二番弟子と思われる大倶利伽羅の前だけだったのではないだろうか?そうでないと検非違使と遭遇して傷を負った部隊の一時撤退を決めた時、大包平は鶴丸に食ってかかってはいないだろう。そのあと鶴丸は大包平に現実を見せるためにわざと傷口をえぐるわけだが、この時の圧がすごいのだ。無表情だから尚更怖い。あの大包平が何も言うことができなかった(傷口をえぐられているというのもあるが)見兼ねた山姥切国広が「その辺にしてやれ」風に静止した所を見る限り、その圧はすごかったのだろう。何度も言うが、あの大包平が何も言うことができなかったのだ。倒れ込んだ時の表情、大包平は鶴丸に底知れぬ恐ろしさを感じたのかもしれない。とはいうものの、そこは絶対的光の大包平である。手入れが終わったらすぐ、鶴丸に謝罪に行っている。ここはすごい。メンタルの強さに感心するしかない。

三日月が本公演や祭りに出なくなったのは中の人の忙しさもあったかもしれないが、実はあえてなのではないかと常に思っていた。鶴丸が葵咲本紀で初めて出てきた時のことを覚えているだろうか?私は覚えている。その時に鶴丸はこう言ったのだ。
「長期任務から戻ってきた」
つまり鶴丸は例の件があって、大倶利伽羅と双騎出陣してから単独で長期任務に出ていたことになるのだ。そして葵咲本紀で久々に部隊として出陣した。その時に物部と呼ばれる人々と遭遇し、三日月がやろうとしていることを悟った。パライソでそれは確信に変わり、それを審神者に伝えた。そして審神者は今回の陸奥一蓮で鶴丸に三日月を連れ戻してほしい、もしくは心配していることを伝えてほしいとお願いしたのではなかろうか。それは山姥切国広も知っていることだった。だから山姥切国広は鶴丸の単独行動を許した。見張り役で行かせた水心子正秀に、あんな暴挙に出るとは夢にも思わなかったかもしれないが。
鶴丸が長期任務から帰ってきた葵咲本紀の頃から、三日月は本丸から居なくなったのではないだろうか。もしくは留守にする機会が多くなったのではないだろうか。鶴丸がいるから任せて大丈夫だと三日月はそう思って、本丸から姿を消すことが多くなったのではなかろうか。

・鶴丸と加州清光の師弟関係

まさかあの件以降の顕現だとは思わなかったよ、加州清光。
M3「ねえ」で微笑みで誤魔化さないでって誰のことだろうとずっと考えていた。三日月宗近だろうか?鶴丸国永だろうか?または大穴で山姥切国広だろうか?いや、それはない。山姥切国広はそもそも、笑って誤魔化すことができるほど器用な刀ではなかった。
そして何よりも驚いたのはこの一言である。
「よく稽古つけてもらったな〜」
ということは大和守安定もそうなのだろうか?同じ新撰組の刀だった和泉守兼定は?堀川国広は?長曽祢虎徹は?考え出したら止まらない。さらに謎が増えた。嬉しい(?)悲鳴である。
そういえばパライソで浦島虎徹はこんなことを言っていた。
「長曽祢兄ちゃんが鶴さんの言うことを聞いていれば間違いないって!」
そんなようなことを言っていた気がする。ということは加州清光以外の新撰組の刀も鶴丸国永の弟子である可能性が出てきた。
弟子であることから、清光は鶴丸みたいに鞘を手に持つ殺陣になっている。今まで特に気にも留めなかったが、これは過去作を見て清光の殺陣を早急に確認しなくては!もし鶴丸と同じ殺陣だったら、こんな最初から茅野さんや前脚本家の伊藤さんは刀ミュ第一作目もしくはプレビューからこの本丸の設定を決めていたことになる。
パンフレットに茅野さんと三日月宗近役の黒羽さんの対談で、茅野さんのこんな一言がある
「舞台経験ががないのに、鶴丸国永という重要な役をやってもらわなければならない」
この本丸で三日月宗近と加えて核となる存在が鶴丸国永なのだ。つまりこの本丸は三日月宗近と鶴丸国永の二振りが中心となって回っている本丸なのだ。
三日月宗近の性格から、鶴丸国永とは違ってそんなに新刃の面倒を見たり稽古をつけてあげたりするというのはとても想像できない。反対に鶴丸国永は三日月宗近がやらない面倒を見たり、稽古をつけてあげたりしてきたのだろう。本当にここでも両極端な二振りである。

となるとM3「ねぇ」で微笑みで誤魔化さないでと清光が思っているのは三日月宗近ではなく、鶴丸国永であろう。清光は話してほしかった。だが鶴丸はそうしなかった。清光に背負わせたくなかった。だがそれが少しずつ変わり始めてきたことに勘のいい鶴丸は気付く。そこで出てくるのがこの曲の歌詞である。
「とうとうここまで来たのか」
この時、鶴丸と清光は背中合わせになる。
「知るべきか」
清光は鶴丸を見る。だがそれに気づいていても鶴丸は振り向かない。
「もうここまで来てしまったのか…」
知る時が近付く。それは諦めのような呟きに聞こえるが、そうではないのかもしれない。三日月と鶴丸は気付いていないが、後進はちゃんと育っているということだろう。ちゃんと種は芽吹き始めている。

山姥切国広に三日月宗近や山姥切国広が抱えている悲しみを教えてほしいと遂に切り出した加州清光。きっかけは些細なことだった。大包平の「怠慢だ!」という一言。加州清光にとってその一言は効いたのではないだろうか。効いたからこそ、行動に起こした。ただ一番聞きたかった刀ではなく、同じはじまりの一振りと呼ばれる山姥切国広を選んだのは納得だった。誰とでも分け隔てなく接することができそうな加州清光の中にも、聞きずらいという感情があったことに微笑ましく思った。さすがに聞きずらいよね。師匠でもある鶴丸国永には。聞いてはならぬことだとずっと思っていたのだろう。だけど本当は知りたかった。ならば師匠以外に聞けばいい。そう思うのはごく自然なこと。相手が教えてくれるか、わからないけど。
新しい風は時に滞っていた流れを突き動かす。それが吉と出るか凶と出るか。この時点ではわからない。

この師匠・鶴丸と弟子・清光の関係性で特にグッときたのが、自分の目の前で清光が検非違使に刃を貫かれ、刀を落としてしまった時。皆は名を呼び駆け寄るが、鶴丸だけはそうはしなかった。素早く静かに検非違使の目の前に立ち、「お前の相手は俺だぜ」と清光や皆を守る体制を取る。この時の殺気たるや。さすが食えない平安刀である。
「感情に支配されると隙ができるぞ」
と山姥切国広に言うが、鶴丸も一番弟子である清光が重傷を負ったことに正気ではいられなかったようだ。
検非違使との戦いが終わって加州が手入れすれば治ると軽口を叩いた時、鶴丸は静かに諭すように
「確かに手入れすれば治る。だが、時間が過ぎるほど深くなる傷もある」
と言われた加州が素直に言うことを聞くのは、やはり鶴丸が自分の師匠だから他ならない。だがその言葉は鶴丸そのものだ。あの時の傷をずっと抱えたまま、何年ももしかしたら何十年も過ごしてきたのかもしれない。それが自分に課した戒めでもあるかのように。

・山姥切国広と例の件

鶴丸と一緒に出陣することが嬉しそうな山姥切国広。久しぶりだからか、または別の感情があるのか。
「勉強熱心な奴め。そういうところは似ているんだよな」
似ているとは本歌・山姥切長義のことを指しているのだろう。本人の前でそういうことは絶対言わない。山姥切国広のことを思ってのことだろう。本来、鶴丸国永という刀は優しいのだ。新刃には厳しく写るかもしれないが、本当は優しいのだ。本人がそうせざるを得ない状況に追い込まれていると勘違いしているだけで。ラストシーンの審神者と話す場面。
「約束は呪いだろうか」
「約束は願いですよ」
審神者の言葉を聞いて勘違いかもしれないが、鶴丸の憑き物が落ちたように見えた。これからは新刃に厳しくすることが少なくなればいい。これは私の願いであるが。

戦いの最中で、山姥切国広に鶴丸はこう問いかける。
「約束はいつから呪いになるんだろうな」
「え…」
この時の山姥切国広の動揺した声が例の件が一筋縄でいかないことを雄弁に物語っている。
山姥切国広は自分のせいで例の一件が起きてしまったことをずっと悔やんでいる。そのせいで袂をわかってしまった三日月と鶴丸のことをずっと気にしているのだろう。それを江水の出陣で克服した、と思われる。彼の眼差しを見て、私は彼はもう大丈夫だな。少なくとも江水の時のようなことはしないだろう、と思っている。
江水の時点で本歌・山姥切長義は顕現していた。山姥切国広が帰ってきた時その一件を腐れ縁の南泉一文字から聞いたとしよう。山姥切長義は烈火の如くとはいかないかもしれないが、怒るのは明白だ。いや、静かにこう言うかもしれない。
「しっかりしろ。実力を示せ」
と。だが、今の山姥切国広は大丈夫だ。少なくとも三日月宗近と鶴丸国永よりは。

出陣から帰ってきて、夜鳴きそばを皆で食べた後加州清光との約束通り昔何があったのか話そうとするところで終わった。大包平は何のことかわかっているようだが、蜂須賀虎徹と水心子正秀は何のことかよくわかっていない温度差がこれまたよかった。加州清光から言われたとはいえ、自分から例の件を話そうとしている山姥切国広。彼はメンタルが回復しつつあるが、背負ってるものが大きすぎる三日月宗近と鶴丸国永はそういかない。そう考えるとどんよりしてしまう。

三日月と鶴丸

山姥切国広の回想から三日月宗近と鶴丸国永は顕現当初からのズッ友だったのだろう。二回目の出陣で鶴丸が単独行動して、水心子正秀を使って三日月を呼び出した意図はいまいち不明だが、今の三日月と鶴丸には考え方に大きな隔たりがあると見れた。最初にも記したが、過去を追い続ける三日月にあくまでも現実を見ている鶴丸。対極の位置にいる二振りである。
「あの時こうして刀を交えていたら何かが違ったか」
「そんな話、鬼が笑うぞ」
この二振りは来るところまで来てしまっているんだなとこのセリフに落ち込んでしまったが、同時に歓喜した。私が思い描いていたミュ本丸の三日月宗近と鶴丸国永そのものだったからだ。この二振りの殺気だった打ち合い、すごすぎた。水心子正秀は立ち上がることもできなかった。それ以前に同じ本丸の信頼していた最古参である鶴丸に斬りかかられるとは夢にも思ってなかったかもしれないが。最後にお互いの着物の生地でお互いの刀についた血を拭く仕草も鳥肌がたった。すごいしか出てこない。ここ、舞台写真が出たら引き伸ばして額に飾りたいくらいだ。
またまた話は脱線してしまったが、この二振りが以前みたいに笑えあえる日なんか来るんだろうか?とどんよりしてしまったが、未来に希望を持つしかないんだな。その為にその場に水心子正秀を居合わせたのではないかと私は思っている。
加州清光や水心子正秀のような比較的新しい刀に希望を見出しているのではないか。そんなことを思ったりした。

「主が悲しんでいる。年寄りは約束を守るんじゃねぇのか」
去っていこうとする三日月に声をかけるものの、無理に引き止めようとはしない鶴丸。それでこそ鶴丸国永だよなぁとこの脚本に唸ってしまった。
自分が寂しい、また一緒にバカな話したり、加州や若い刀に稽古をつけてやったり、茶を飲んだりしたいとは決して言わない鶴丸。言わないからこそ鶴丸国永なのである。

「三日月宗近は何を探しているんだ」
「決して見つからないものさ」
と水心子に言った鶴丸。このセリフが二振りが別々の道を歩んでしまったのだなぁとまた落ち込んでしまう。いつか交わる日が来ることを願うしかないのだろう。

最後の検非違使戦でも、本当に危機に陥らないと戦いには参加しなかった三日月。それはこの部隊の実力をわかっていたからこそ。でも本当に一番良いところにで出て来るのはさすが三日月である。
審神者から聞いた庭の桜の木は新しい刀剣男士が顕現するたびに植えようとアイツ(初期刀である歌仙兼定。明かされてはいないが、ほぼ確定でしょう)が提案した話だということを三日月に話す鶴丸。この昔話を俺と主だけでするのは勿体無いと二回目の出陣の前に鶴丸が言っていた。それをここで出してきたのは天晴れである。そしてそれを聞いて三日月は、かつて自分が顕現したばかりの頃を思い出す。そこでこの本丸の黎明期の顕現順が明らかになる。
初期刀(ほぼ歌仙兼定で確定)→初鍛刀(明石国行が顕現していることからして愛染国俊だと推察する。もしくは鬼丸国綱と一期一振がいることから、粟田口の短刀の可能性もあり。もしくは歌仙兼定初期刀説なら、同じ細川にあった刀である小夜左文字の可能性もある。ちなみに弊本丸の初鍛刀は小夜左文字でした)→三日月宗近→鶴丸国永→山姥切国広。ここまでが明かされている。ただ例の件の出陣は6振り。あと一振り足りない。私は陸奥守吉行なのではないかと思っている。彼のむすはじでの佇まいがどこか引っ掛かっている。黎明期の例の一件を知っている一振りなら説明がつくのだ。
桜を植える役目はほぼ鶴丸国永が担っていたということも明らかになった。どうして桜を植えているのか、この時は本人に明かされていなかったんだな。ただいたずらややらかしをして、初期刀に罰を与えられていた説を私は強く推したい(笑)

「あんま無理すんなよ」
「しゃらくせえ」
これはパライソの逆パターンとなったわけですが、三日月のしゃらくせえの言い回しが、私が観劇した東京公演の時よりかなり変化していたのがグッときてしまいました。東京公演では軽く返す感じだったのに、千秋楽の三日月のしゃらくせえの言い回しはどこか泣いているように見えました。
帰還した部隊が手入れを終えて夜鳴きそばを食べている場面に、鶴丸だけがいませんでした。それが辛いという方もいらっしゃいましたが、私はあの場に鶴丸はいないだろう。いや、いちゃいけないよとね、と思いました。やはり脚本家の浅井さんと演出家の茅野さんを信じて良かった。いたら山姥切国広と加州清光の約束は果たせるのか疑問だし。いつも一振りで桜の木と語り合ってる鶴丸は、やはり皆と一緒にいない方がいい。見ている方は辛いですが。
鶴丸はもしかしたら、いなくなってしまった初期刀と桜の木を重ねて対話しているのではないだろうか。最初は三日月と思っていたのですが、幻覚だけど三日月はその場に出てきた。桜の木の前を去る時、鶴丸は盃に酒を一杯ついでその場を後にしている。
「今ならその気持ちわかるぜ。詠まずにはいられないってな」
詠う。唄を詠むということ。
やはりいなくなってしまった初期刀に向けてなのかなと思ったり。三日月だったら酒ではなく、茶を注ぐよな。
幻覚だと気付いた時の鶴丸の表情はそれはそれは悲しくて久々に舞台を見て泣いてしまったけれども、それでこそ鶴丸と三日月だよな。相容れない二振りの関係をラストシーンで的確に表現していた所には推しながら天晴れでしたね。平伏しました。21歳の時から推しを見ているけど、年々すごくなってない?推し、酒飲めないのに酒の注ぎ方も堂に行ってるし、飲み切った後の盃の払い方も恐れ入りました。好んで日本酒を呑む私でさえ、様になってるわ〜と感心しきりでしたよ。私は盃ではなくお猪口でそれをやりますが。違う酒に替える時、ああいう払い方するな自分…と思い出したり。だって、味が混じったら嫌じゃんね!

話がまたまた脱線してしまいましたが、なかなか咲かない桜の花とか気になることが多々ありますが、例の件の核心に迫っていく最初の話としてはいいまとめ方だったのではないでしょうか。三日月と鶴丸の心は離れたわけではない。ただやり方が極端に違うだけ。水心子に俺はもう寄り添えないからと鶴丸は言いますが、そうではない。三日月がやろうとしていることは理解はしている。ただ自分はやらない。やるつもりはない。その意思表示のために水心子に言ったのではないだろうか。
ただ止めはしない。好きなだけやれ。自分が気の済むまで。気が済んだら戻ってこい。それまでは本丸は任せておけ。連れ戻そうと思えば連れ戻せたかもしれない。けど鶴丸はそれをしなかった。たぶんそのことを審神者はわかっている。わかった上で鶴丸に頼んだ。審神者は最古参たちの悲しみを誰よりも理解しているから。さて、次の参騎出陣でまた新しいことが明かされるのか。今度出陣する男士には和泉守兼定がいます。初期刀と言われる歌仙兼定と同じ兼定の刀です。歌仙を之定と慕っている刀です。怖いけど楽しみに待ちたいと思います。

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