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人はいずれ死ぬ、ってはなし。

たまにブログ書こうかなと思って始めました。

ぼんやりと書きたかったことについて書いているので、眠る前にでも読んでください。

ツイートでも一度触れたことがあるのですが、 私は真面目な話をするときに「どうせ死ぬから」って言葉をたまに使うんですけど、これ、すごく誤解されやすいと思うんですよね。

ネガティブな意味では全くなくて、むしろ前向きな意味で使っているのだけど。
言葉の持つ世間的なイメージと内側にある意味に差があると、取り扱いが少し難しいのかもしれないです。


響きだけ汲むと精神的疲労の心配をされそうですが、こっちは毎日ご機嫌といった感じなのでバリバリに大丈夫です。

本題に戻りますが、
まあ私達って当たり前に死ぬじゃないですか。
死ぬんですよ。
どんなに偉くても、優れていても、逆にどうしようもない人生であっても、生き物なので平等にいつか心臓は止まります。

で、その死ぬタイミングというものは基本的に自分で選べないんですよね。
極端な話だと明日事故で死ぬかもしれないし、今この瞬間に大地震が起こってもおかしくないとか。
まあ色々あると思うんです。

でも、何故か多くの人は当たり前に明日明後日、一年、十年、その先と。
なんなら大体八十年くらいは生きれるかなあ。なんて無意識に考えちゃっているんですよね。自分だけは大丈夫とか思ったりして。不思議なことに。
でも、上記に挙げた通りにそんなことは当たり前ではないわけです。

だからこそ、自分の人生を豊かにしていく為には何が必要かとか。何を優先すべきかとかを主軸にしていた方がいいと思っていて。

よく思うのがそこに他人の評価とか、世間がとか、話に上がりがちだけど気にし始めたらキリがないんですよね。
というか、その気にしてる他人とか言うのも、いつかは死ぬし。

あと、何かを始める段階や途中経過でマイナスな評価を付けたがる人にそう立派な人もいないので気にするだけ無駄です。
例えば、生まれた瞬間から立ち上がって歩ける赤ちゃんとかいないじゃないですか。
何かを成し遂げたいと頑張っている最中に口出ししてくる人は、生まれて間もなくハイハイしてる赤ちゃんに「歩けないの?」とか言ってるようなものです。そこそこサイコパス。

そんなわけで何か目標や夢があるのに周りが気になる人は、そんなに気にする必要ないので頑張って欲しいです。自分を思ってくれてる人以外の意見って、割と時間が勿体ないので。

正解かどうか決めるのは、目標を進めた時の自分ですし。
失敗しようと責任取るのは、自分です。

ただね、何にせよ常識は大切です。
ここまでの話も、ここからの話も、ぜんぶ常識の上でのお話。
例えば誰かに分かってほしい夢という事なら
分かって貰える自分に自分自身が変わっていくべきだし。他者が介入する場合はまたちょっと別件だったりします。

と、ちょっと話が寄り道しちゃいましたが
何が一番言いたいかというと
「いつ死ぬか分からないなら、いつ死んでも良いようにしておくしかない。」
ということです。

物語は最後の最後に本人が幸せだと思えるなら、それがハッピーエンドじゃないですか。

そうすると、死ぬときに「幸せ」だと感じられたらその事実だけで最高の人生なわけですし、その為にどうするべきかは最後がどの場面で来ても良いようにしておくのが最善かなと思っています。

という話の上で、
幸せの感じ方も定義も人それぞれだったりするのですが、ただ条件として後悔がない上に気持ちが満ちた状態であることには変わりないと思っていて。

「自分がどんなときに幸せだと感じるか。」

「いま死んだら何が後悔として残りそうか。」
を定期的に見つめ直してみるとちょっとだけ生きるのが快適になるかもしれないです。
オススメ。

で、人生は結局自己責任で自己満なので、
自分が自分のままで幸せだと思えるお話を、自分でつくっていけたらそれが最高かな。

もし明日いきなり生きることがおしまいになったとしても幸せな最後でありたいし、好きな人達が遠くに行ってしまったとしても、ちゃんと気持ちを伝えられてたって言えるような毎日を更新し続けたい。

単純なはなしだけど、
今と、自分の今に関わる人を、大切にして生きていけたらなあと思います。ね。

ちなみに私が今死んでしまったら、
ただひとつ(先月食べた横浜中華街のめちゃウマ中華をもう一度食べたかった…)と後悔して中華街の地縛霊になりかねないので、
年内に横浜中華街へ行こうと思います。

神の食物。美味しいは幸せの模範。

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