自然 身体 プロポーション




生き物の中で自ら意思を持ち身体を加工するのはヒトのみである。
私たちは、持って生まれた体がよほど気に入らないのであろうか、それとも、自然のままであるということに不安を覚えるからであろうか、いつも自分の身体の一部を布切れで覆ったり包み込んだりするだけでなく、むき出しになったほかの部分にもことごとく、何らかの加工や変形や装飾を施さないではいられないようだ。そのために人々がこれまで考え出してきた手法や技巧は多彩で且つ偏執的である。

髪に対して—
毛を抜く。剃る。束ねる。止める。編む。カールさせる。熱を加える。
油を付ける。染める。漂白する。

身体の平らな表面に対して—
磨く。皺を伸ばす。顔面に白粉を塗る。顔面に明暗を付ける。肌を多彩に塗り分ける。図柄を書き込む。星、蝶、木、鳩、馬車などの形をしたパッチを付ける。香水をつける。刺青。

身体の突起物に対してー
耳たぶや鼻中隔の下端や小鼻、唇に穴をあけ、棒や輪、時には鎖や安全ピンを通す。爪を伸ばす。爪に色を塗る。指輪、ブレスレット、バングル。首輪。足の歪形。割礼。

塗飾、貼付、切断、刻印、埋め込み、あるいは締めたり緩めたり、伸ばしたり縮めたり、膨らませたりへこませたりと、私たちは体をあたかも彫塑用の材料でもあるかのように、ひきちぎり、こねくりまわし、加工し、変形する。常に定まりを見せないファッションのモード(様式)は私たちの自然な身体に何を求めるのか。



衣服、装飾品の役割

機能性からの離反=拘束

衣服の多くは布で仕切られている。衣服は身にまとう物であり、さらには身体は絶え間なく動くものだから、衣服の条件としては、軽くて伸縮性があり、圧迫することなく身体に密着するものがよいのは当然のことだ。しかしそのように衣服をまとめ、留めている箇所に目をやると、奇妙なことに気づかされる。首や腰に装着されているもの、例えばカラーネクタイ、ベルトといったものは、衣服をまとめ、止めるといった機能をすっかり逸脱して、締めつける、縛るといった行為は身体拘束の手段に転用している。この拘束視点から今一度私たちの衣服を見なおしてみると、もとはと言えば呪術と深く結びついていた装飾品、ネックレス、ブレスレット、指輪の類にまで拘束のイメージはついて回る、これらの装飾品に鎖が多用されるのも偶然ではない。

拘束とは、身体の教化

飲食、排泄、性交、労働、これら生の基本的な営みは、外部の自然とのかかわりのうちに本質がある。私たちはこの関係を自然のうちに放置するのではなく、それを文化という名のもとに統制可能なものとして様式化しようとする。この関係の媒体こそ身体である。

規範の身体への刷り込みは道徳という名で家庭においても、学校でも軍隊でも教育が密かに、時にはあからさまに眼目として掲げているものである。規則正しい睡眠、食事や排便のしつけに始まり、保つべき姿勢が、守るべき作法が身体に記憶させられる。そして身振りによる表現やコミュニケーションが抑圧され、痛いときにはぎゃーというのでなく、痛いと冷静に言うように仕込まれ、肉体の沈黙こそ最高の慎みである、というわけだ。

ここで求められているのは、規範に飼いならされた従順な身体の形成である。それに向けて身体の拘束、隠蔽、加工、変形、装飾といった衣服構成上の様々なポリシーが動員される。衣服こそ最もちょくせつに身体の可視的運動と内部動性を規定するからだ。

そうして衣服のあらゆる構成部分に道徳的構成の暗示が浸透されていく。上記の衣服や、19世紀の貞淑で慎み深い最もシンボリックであるコルセットだったり。

ではなぜ私の外部である自然の世界をそのままにするのではなく、文化として統制することを望むのか。

それには私の外部を措定するという遂行的意味合いが含まれる。

たとえば、人間の身体と同じ温度の水のなかを潜行していると、どこまでが自分の身体でどこからが水なのかいつの間にか区別がつかなくなって、自己意識が消失してしまうことがある、わたしと私でないものの境界線は考えられているよりはるかに脆く、曖昧であり、人はこの不安から逃れようと「境界の意識を高めるための様座な儀式」を編み出してきたフィッシャーは指摘している。

皮膚を焼いたり、冷たい水の中を泳いだり、筋肉をもんでみたり、髪を撫でてみたり、顔に化粧を施したり、指輪を付けたり、香水を振ったり……
また、意図的ではないが、羞恥や怒り、極度の緊張といった激しい感情的興奮は、スポーツと同じく、鼓動を早め、体温を上昇させるので、身体感覚が鋭敏になり外気との接触面の意識も高まる。こうして人は自分のフィジカルな輪郭を顕在化させる。

例えば街を歩いていて思わぬところで鏡に映った自分にばったり出くわすとき、どぎまぎしながらも、私たちは他人に気づかれないようにこっそり鏡の中を覗き込む。歪んだ顔がいつもの顔に戻るまで視覚を何度も調整する。姿勢を正す。しかしその表情は、いつもと違ってどことなくこわばっている。そのわずかなこわばりを見ていしまうと意識の中に小さなしこりができて、しばらく取れないということはないか。

私たちは、自分の可視的な存在を想像の中でしか手に入れられない。身体の目に見えるわずかな部分を、鏡に映った像をパッチワークのように自分の想像力の糸で縫い合わすしかない。人と撮った写真を見る時、まず最初に意識が向けられるのは自分の顔だ。そしてそれに満足するひとは多くない。想像の中の手探りで構成した自分のイメージとのかすかな誤差がそこに露呈しているからである。ひとは自分の可視的なイメージとの乖離に不安を覚える。

衣服はそれ自体としてみればただの布切れに過ぎない。誰かに着られることによって衣服は衣服となる。しかしつけくわえると、誰かに見られることによって衣服は衣服となる。衣服は何よりもまず自分の可視性を変容させるものであるからだ。私たちは衣服によって、自分を物理的な規制に押し込み可視化することができる。自分の身体を自然から統率可能なものへと変容させている。


ではすべて身体行為の本質が統率にあるならば、それらの行為が倫理によって差別化されるのはただしいのか。

意識的な行為
筋トレ→思うように体を動かす事。思考や文化に体を従属させる意味
自傷行為→痛覚による感情の統制、アドレナリンとノルアドレナリンを放出する規則性ぼ条件付け、瀉血による自己内部の可視
整形→自己の可視性の統制

無意識的な行為
指を鳴らす、あくびをする、深呼吸する→ルーティン、儀式的なものは感情の統制に意味がある。
 「衣服の着用」ファッションのモード
ピアスは一種の自傷行為
刺青のもとは個体選別、今では対象との同一化
ゴシックな服装とは19世紀ヴィクトリア女王を代表する道徳的且つ、謙虚な女性を模したイメージ。
個性的な服装とは個性が価値であることを理解し、自己をモノとして統率し、売り出すための意味





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