羊をめぐる冒険 途

主人公の僕は30を目前に離婚し、一人になってしまう。しかし、その直後「僕」の前に新しい女性が現れる。彼女は耳専門のモデル、出版社のアルバイト校正係、高級コール・ガール・クラブの娼婦という三つの仕事をしている21歳の女の子。「僕」は「彼女」の耳に想像を絶する魅力を感じてしまう。彼女の耳は人を魅了し、未来を予知する特別な力を持っていた。彼女はその能力によって「羊をめぐる冒険」が始まると予言する。
その言葉の通り「僕」は「星形の斑紋のある羊」の写真を雑誌に載せたことが原因で、窮地に追い込まれる。「僕」のまえに突如、日本を裏から牛耳る巨大組織が現れ、写真の羊を見つけなければ、「僕」の会社と「僕」自身を破滅させるというのだ。羊の写真は友人の「鼠」が「人目につくところに持ち出してほしい」と頼まれたものだった。「鼠」は今どこに、羊は今どこにいるのか。新しい彼女の能力を借りながら、僕は北海道に向かうのだった。


村上の小説には大きく分けて二つのテーマが存在する。一つ目は、恋人・直子の自殺に象徴されるように、大切な人との突然野別れを、どのように受け取って生きていくのか。二つ目は、権力の批判と、それに屈することなく、いかに対決していくべきかである。この小説は、この二つ鵜のテーマを初めて同時に取り上げたしょうせつだ。
 まずは、別れ。昔のガールフレンドが交通事故死をするシーンが象徴的だ。その後も、妻と離婚し、友人と立ちあげた翻訳事務所の仕事をやめ、新しい彼女の間にも別れが訪れる。どの大切な人との別れも、自ら意図したものではない。突然に訪れた別れにより受けた心の傷を主人公はどのように納得し、乗り越えていけばいいのか。これは自作の『ダンス・ダンス・ダンス』にも引き継がれていくテーマだ。
 また、権力への批判と対決というテーマは「羊」が絶対的な権力のメタファーとして描かれている。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「1Q84 ]にも形を変えながら登場する。

10代の頃から「僕」の友人である「鼠」。僕は大学を卒業し、友人と翻訳会社を立ち上げた。一方、「鼠」は大学を中退してから定職につかず、日本中を放浪し続けている。しかし、「僕」と「鼠」の心はいつでも誰よりも一番近いところにある。
 「僕」にとっての「鼠」、「鼠」にとっての「僕」。互いの存在は、自らを映し出す鏡だ。二人の抱えている共通の悩みは、社会の人々と深い関係を築けないということ。「鼠」は「僕」に、日本中を放浪した理由について、自分の弱さを誰にも悟られたくなかったからだと語る。実は僕をも同じだ。今まで「僕」が別れを繰り返してきた理由も、周りの人々と深くかかわることが精神的に怖かったからだ。自分の弱さを知られたくなかったからだ。
 この弱さとはどのようなものだろう。それは社会の中で自分が変わっていくこと、つまり、大人になることへの抵抗なのではないか。「鼠」が「僕」にわたした写真が原因になり、「僕」は命がけの冒険を強いられることになる。「鼠」がもう一人の僕だからこそ、困難な冒険に立ち向かうことができたのであろう。

羊の序列社会は絶対権力のメタファー

戦中の日本の軍隊は、上官の命令には絶対服従の序列社会だった。それは、上官の命令=天皇陛下の命令を意味していたからだ。しかし、今の日本にもこの絶対的な権力が存在していることを、村人はこの小説でしめしている。そのメタファーが「羊」だ。自分の内側にかうことで、日本を支配できるほどの力を持つことができる「星形の斑紋のある羊」。この羊は、戦前の日本軍の任務で中国大陸を偵察していた官僚(のちの羊博士)に取りつき日本にやってきた。その羊の力によって、ある人物が戦中戦後の日本の権力を握るようになる。これは戦前戦中の権力構造が、現代の日本に引き継がれてきた様子を表しているのだろう。
また、羊飼いが語るシーンがある。羊の世界は完全なる序列社会で、群れのすべての羊はリーダーの羊が動く方向に黙ってついていく。これも集団社会性の危険性を示唆したメタファーである。絶対的な権力に従うということは、人間としての思考を停止することに他ならない。

嫌なカーブ

「鼠」をおって牧場に向かう途中、不吉な感じのする「嫌なカーブ」を曲る。この場所が、深層意識の世界とつながっている。


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