言葉とは何か


構造主義とは、私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。

 つまり、私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、とする学知である。

そして構造主義を代表する学者である、フェルディナン・ド・ソシュールは、言葉とは差異によって生まれるものだとし、私たちの認識に先立って現象を形作るものだとした。さらに言葉は表示部と内容部から構成される記号的概念であること、記号の表示部と内容部の関係は恣意的であることを説いた。

加えて言語活動とは、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけるということであり、例えるなら星座のように星同士の位置関係に名前がつくことで、ある観念が私たちの思考に成立するということだと内田樹は膾炙する。

確かにそれらの言説を理解することはできる、しかし、言葉ないし観念を成立しうるものが社会的恣意性によって選択されるなら、なぜ人々はあれほどまでに自分勝手な物言いができるのであろうか。言い換えれば、自分の言葉だと錯覚することによって自我を確固たるものにするナルシズムに陥るのか。

例えば、「あなたはそんな人ではない」という言明はよく耳にするものである。ここにおいて、一読したところ主語は「あなた」であるように思えるが、正確にはこの言明は「私はあなたはそんな人ではないと思っていた」のほうが正しく、主語は間違いなく私である。つまりこの言明はこのような定型文を使う私というアイデンティティの提示であり、であるにも関わらず、私がどういう人間であるかの説明的述語を敢えて省くことで、社会的通念をもってして私を想像しろという強要、あるいは通念を共有しうる構造内部に位置する個性であることを同じ構造内部に位置する者へのメッセージであると考えることができる。

しかし、現に「あなた」というのは四つほどの観念態を様しており、この場合、「私」が対峙している「あなた」はメッセージの受信者としてなりえない存在である。なぜなら「あなた」というのは、一つ目に当人が抱く自分の観念態、二つ目に社会が「あなた」に向ける第三者的な観念態、三つ目に「私」が考える「あなた」の観念態。四つ目に今「私」が考える「あなた」を記号的に代表しつつある観念態を持ちうるものであり、「そんな人」を形成するのが四つめの姿である。

要するにこの言明は、「私が考えるあなた」の姿が「私が考えるあなた」の姿に移行しているだけであり、どちらもが「私」、つまり非第三者が作り出した「あなた」に過ぎないのだから「わたし」のメッセージを受け取るにふさわしい内部共同体ではない。そしてどちらも当人を示しきることのない観念であるがゆえに当人は自我の分裂を強いられる結果になっている。

加えて言えば、個人の考えが完璧に誰かと合致するということは経験的にあり得ない。つまり完璧な通念など存在しない。

だからこそこの世の諸言明は、特に一般的と称されるほど、未完で遂行的であって、こちらに共有を強いる慣性が存在しうる。また自己充足の形態をとることもある。

先に、なぜ自分の言葉だと錯覚することによって自我を確固たるものにするナルシズムに陥るのか、と論じたがこの言明は矛盾している。なぜなら、自分の言葉と錯覚するものは本来他人から得たものであって、つまり自分の中の他者性を強めるほど、ある観念や語彙を雄弁に語れるようになり己の自尊心は満たされてゆくからだ。

その矛盾に何らかの疑問を感じた谷川俊太郎が、沈黙を肯定し、宮沢賢治がクラムボンという非言語的表現を主題にしたとしても説明がつく。

おそらく、言葉がもつ矛盾を考えない人ほど自尊心が高く、別の言い方をすれば傲慢な生き方ができるのだろう。しかし、反対に自我の矛盾にばかり悩んでいたらこのような文章を書くことすらできず、もはや身動きが取れない状態になるに違いない。

言葉とは何かという問いは自分の存在に関する矛盾へと続いてしまう。

ただ一つその矛盾を超えでる方法があるとしたら、それは自分が何者であるかという根源的な問いを持たないことだろう。





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