「1973年のピンボール」

主人公の「僕」は社会人になった。三年前に死んだ恋人・直子の事を忘れるために、彼女が住んでいた町を訪れてみた。しかし彼女の事を忘れることはできなかった。そこから「僕」と「鼠」、それぞれの物語が交差することなく、ほぼ交互に描かれている。
「僕」は大学を卒業し、友人と始めた翻訳事務所で働いている。いつの間にか家に住み着いてしまった双子の姉妹と、「恋人のような奇妙だが、平穏な生活を続けている。しかし、ある日学生時代に夢中になったピンボールの行方が気になり始め、再び始めるためにピンボールを探し始める。一方、「鼠」は大学を中退した後、裕福な父親の援助を受けながら、故郷に日々怠惰にすごしている。そんな生活の中で、年上の女性に恋をし、彼の人生を新たな方向に進み始める。ふたりのじんせいはいったいどこに向かうのか。

前作の「風の歌を聞け」で主人公の僕が語った、雑木林で自殺をした三人目の彼女。前作ではその名前が語られることはなかったが、今作では「直子」とはっきりと語られている。直子が死んでから三年たってもいまだに僕はその悲しみを乗り越えられずにいる。彼女のをどうしたら受け入れられるのか。それがこの小説のテーマとなる。
 直子が死んだ悲しみを乗り越えるために、大きな役割を果たすのが、ピンボールマシーンだ。直子とピンボールマシーン、一見彼女とピンボールマシーンは何の関係もないように思える。しかし、伝説のピンボールマシーンは彼女がなくなった年に僕が夢中になっていたもの。つまりそれは、間接的に彼女の思い出につながっている。僕の前から突然姿を消してしまったピンボールマシーンは直子のメタファーなのだ。
 だからこそ僕はその行方が気になり、伝説のピンボールマシーンを必死に探し始める。探し出すという行為は、二度と会うことができない直子に別のか形で会う事、つまり彼女の死を受けいることをいみしている。

「1973年のピンボール」にはその後の村上作品で用いられる様々なキーワードが登場する。それを探しながら読み進めるのもおもしろい。
まずはこの物語のキーとなっている「直子」。彼女は「蛍」と「めくら柳と眠る女」にも少し設定を変えて登場する。そして最終的に「ノルウェイの森」にも登場する。
次に「井戸」「風の歌を聞け」でも登場したが、「ねじまき鳥クロニクル」では、物語の核となる役割を担うことになる。そこでは、井戸の底が深層意識につながっているのだ。「配電盤」は「深層意識のつなぎ目」を表している。「僕」と双子が配電盤を貯水池に投げ捨てるシーンは過去との決別を感じさせる。『ダンス・ダンス・ダンス』でも、同じ意味付けで登場する。
 また、「僕」と「鼠」の物語がシンクロしながら進んでいく物語の構造は「世界の終わりとハードボイルド」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q 84」に踏襲されていく。

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