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きょうのうた[灰かぶり/十明]


小さい頃に悲しくて涙を流していると、母に「悲劇のヒロインぶってんじゃないわよ」とよく怒られた。

自分をヒロインだと思ったことは今まで一度もない。私の幼少期の環境はここでは割愛するが、この状況でヒロインだと思えるわけがないからだ。私は自分のことがヒロインだと思って泣いているのだろうか?

私はただ悲しいから泣いているだけで、それすら許されない。しかも家の中で泣いているだけなのに。

母は「泣くとみんなが本当のことを言ってくれなくなる」と言った。

泣いて本当のことを言ってくれなくなる人たちと関わらないといけなかった母は可哀想だ。

私も情報がもらえなくなるのは嫌なので、気をつけようと思った。客観的に自分を捉えることは大事だからだ。何も知らずに泣いている子だけにはなりたくない。

子どもの時に感情を押さえつけられる環境にいると、いざ感情が出てきた時に抑えられなくなる。昔泣き始めるとひきつけのようになって、抑えられなくなったことがよくあり嫌だった。私だって泣きたくて泣いているわけではないのだ。家でストレスを感じていたようだ。

自分が家でストレスを感じているかどうかなんて、ほかの家の子どもと比べようがないのだからわかるわけがない。そしてそれは比べるものではなかった。

この世の中は「人前で涙を流す」ということを許さないのだろうか。

感情をその場でちゃんと消化してあげないと、だんだん何かが体の中に溜まってきて、取り返しのつかないことをする。

悲しみは本当は、別の感情になる前に、涙に変えてあげないといけないのだ。そうしないと忘れ去られた悲しみは人知れず武器を取り、悲しみを携えた人の肉体を引き裂き、誰彼構わず復讐を始める。

「あの時お前は私を涙にしなかったな。」

たかが涙と馬鹿にすると、いつか必ず報いを受けるのだ。

悲しみを涙に変えることは、強くなるための、跳び箱の踏切版のようなものなのかもしれない。

職場で泣き真似をする人に初めて遭遇した。
誰かに指示されて泣き真似をやらされてる気がした。
なんで泣いてるんだろ…という感じだった。私が何かしたのだろうか。辞めて欲しそうだったから私が辞めるという夢を叶えたのに。
今時そんな手段を取る人がいるのか、と面食らった私が無反応だったので「人の心がないのか」と誰かが言っているのが聞こえた。

私もみんなの前で泣いた方がいい気がして、泣いてみようと試みたけど、うまく泣くことができなかった。どうしても思考の方が勝ってしまった。黒幕の存在になんとなく気づいていた。

私を憂さ晴らしに使いたかったのだろう。指示をした人間は、私の存在が邪魔で気に食わなかったか、よほど暇を持て余していたに違いない。新しく人を雇う必要はそもそもあったのだろうか。本当に無駄。

彼らは悲しみを涙にできないから、害を与えてこない他人を憂さ晴らしすることでしか、悲しみを体の外に逃すことができないのだ。

「お前は可哀想じゃない。私たちの方が可哀想だとは思わないのか」

みんなで涙にならない、可哀想なわたしごっこをさせられていて、可哀想だった。

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