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相馬栄の心の動き③

ー「喪失」と残すことー

栄と設楽との関係でしばしば登場するのが「喪失」というキーワード。「喪失」を惜しみ、残しておきたいと願う描写も見られます。
今回は、三芳の行ったやらせにも触れながら、栄にとっての「喪失」と残すことについて探っていきたいと思います。


◆三芳と栄の共通認識

やらせのことを、栄は「自分が落ちていたかもしれない穴、落ちるかもしれない穴」(ひらいてp49)と表現。同じテレビ番組制作者としても他人事ではなく、三芳を理解できる部分があったのです。
別人をティム・サットンに仕立てて番組をつくった理由を、三芳は次のように話します。

「…伝聞でも再現ドラマでもなく、ティム・サットンの人生を『事実』として伝えなくちゃ。だって彼は確かに生きていて、僕と話したんだから」(ひらいてp52)

三芳は自分が聞いた話を「事実」という形で放送することにこだわっていました。そうしないと、ティム・サットンが実在した人物であり三芳と会話をした出来事が失われてしまうと危惧していたように思われます。

同様の思いを栄も抱いていると分かるのが、実家の映画館についてのモノローグ。

失われたものはいつか思い出せなくもなり、「なかったもの」としての比重が増えていく。カメラに収めておけばよかった。完成させられるかどうかは別にして、残しておけばよかった。いつかは消えてしまう、何もかもがそうだ。(ひらいてp41–42)

何かの形で残しておかなければ全て消えてしまう、この気持ちはティム・サットンの人生をカメラに収めようとした三芳に通じます。
ただし、それが叶わなくなったときに「穴」に落ちてしまうかどうかは、視聴者の目線に立てるか否かで決まるのでしょう。


◆初夜の「喪失」が原因?

次に、栄にとっての「喪失」を、設楽との行為から考えたいと思います。
最中の描写で特徴的なのが、「喪失」や「終わり」を強く意識しているという点。

いつかは過ぎて、終わり、後から振り返ってもそれは瞬間も気持ちとは違う。それでも、一秒、一フレームより短い刹那を、互いの心と体に感光させろとばかりに求め合う。焼きついて。誰にも分からないところに。
   (中略)
抱き合って、満ちたものがすこしずつ引いていく喪失感も分け合う。目を閉じると、昼間の部屋にいるのに真っ暗で、そのうちエンドロールみたいな暗闇に、鮮やかな花火の光がいくつも弾けて散った。(ふさいでp252)

確かなのは、終わったら終わるということ。だから手放さずに抱えていたい気持ちと早く果てたい気持ちがせめぎ合って胸の中で激しく弾ける。栄の花火。設楽の花火。結末は分かりきっているけれど。矢印はいつも一方通行で、音も光も消えた後のエンドロールに向かうしかない。(誘惑してくれ「うたかた花火」p35–36)

圧迫や快楽で自分という一個の肉体を強烈に意識しながらどんどん自分が失くなっていく心許なさを感じてもいて、この両極の矛盾はほかの誰と寝ても味わえないだろう。(ひらいてp66)

いずれのシーンも、終わってしまう、失われてしまうとの思いが強調され、儚さは花火に、終焉は映画のエンドロールにも例えられています。

ここまで強く「喪失」と「終わり」が結びついているのは、恐らく設楽との初めての一夜が原因。「もうすぐ遠くへ行ってしまう男に抱かれている」(ふさいでp136)とあるように、設楽はまもなく地方へ出向することが決まっていました。
この行為が終わったら設楽は自分の前から消えてしまう、そんな思いが次の箇所から読み取れます。

セックスが終わった。
俺はこれからひとりで、また自分をふさがなきゃ。(ふさいでp137)

「終わり」と設楽の「喪失」を際立たせたこの文章で十一年前の回想はほぼ区切りがつけられ、あとはさらりとその後の出来事を追うのみにとどまっています。
この初夜の記憶が、その後の行為の最中の気持ちと大きく関わっているといえるでしょう。


◆跡を残すことの能動的変化

そして「残しておきたい」との願いについて。
まず、栄は最初の夜に「肩を押さえつける設楽の手の甲にぎりぎり爪を食い込ませた」(ふさいでp124)と、設楽に血が出るほどのケガを負わせています。深い意味はない行動に思えますが、後になってから栄は度々この傷を思い返しているのです。

膝に置いた手を、そっと取られる。ちらりと見えた設楽の手の甲に、栄がつけた傷は跡形もない。当たり前だ。設楽が栄の肌につけた唇のしるしがすぐに消えてしまったように。(ふさいでp154)

かつて怒りと混乱と喪失感の中で、この手をかきむしるしかできない夜が、あった。(ひらいてp49)

一つ目の引用は自分がつけた傷が消えたのを惜しむ気持ち、二つ目は喪失感を覚えていたことを裏付けています。前出の「焼きついて。誰にも分からないところに。」(ふさいでp252)でも同様のことがいえるのではないでしょうか。
そんな栄の心がはっきりと描写されているのが次のモノローグ。

息や声で、跡がつけばいいのに。この男の汗ばんだ肌に、めったにさらさない肚のうちや、心臓にだって。見えなくてさわれなくてでも消えない、栄にだけ分かる印がつけられたら。(ひらいてp68)

この文章が書かれているのは『ひらいて』の終盤。先ほどの「焼きついて」は受動的でしたが、ここでは「印」をつけたいと能動的になっているのです。

これはきっと、設楽との関係が深まるにつれて生じた変化。なくならない跡を残したいと自覚できるようになった栄の変化に、今後ひらかれていく二人の可能性が感じられます。


〈引用文献〉
一穂ミチ「ふさいで」(新書館、2018年12月)
一穂ミチ「誘惑してくれ」(MICHI HOUSE、2018年12月)
一穂ミチ「ひらいて」(新書館、小説Dear+フユ号Vol.76、2020年1月)

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