「鏡」の話

「ふさいで」で印象的だった”設楽さん=鏡“という、栄さんと奥さまの共通認識。あのときの2人の会話の後も、しばしばこの表現が使われています。
そこで、「ふさいで」を中心に「鏡」について少しまとめてみました!
なお、特に結論などはないので悪しからず…

そもそも鏡のことを言い出したのは奥さま。

「街中とかでさ、急に鏡見てびくってする時ない?」
(中略)
「…設楽さんといると、時々そんな気分になる。全部が等身大で、悪いとこもそのまま映ってる、あの人にはそう見えてる、みたいな怖さ。…」
(中略)
この場に設楽がいれば、それも見透かされて「あーあー」という笑顔に流されるだけだろうか。思えば、気持ちの悪い男とつるんでいるものだ。(ふさいでp49-50)

それまでも栄さんが感じていた「すべて見透かしているような設楽が気持ち悪い。」(ふさいでp23)という思いをまさに言い表していたのが、この「鏡」発言でした。(それにしても気持ち悪がりすぎ…)

“設楽さん=鏡”が余程しっくりきたのか、その後も栄さんは度々「鏡」というワードを使っています。

あんたの鏡に映る姿がいびつすぎて。(ふさいでp57)

オレンジの光に照らされて、設楽の瞳の中心がぽつっと白く見えた。今、ここには何が映っているのだろう。制作に行ってなじんでいる栄が、やっぱりうまくはまったと満足する自分自身か。鏡を曇らせたくて、自分の姿を消したくなくて、口を開いた。(ふさいでp58)

自分が設楽さんという「鏡」にどう映るのか、ちゃんと映っているのかを気にしているのが分かります。
ですが、鏡は己の姿が見えるもの。設楽さんを通して、つまりは自分自身と向き合う感覚になっているのではないでしょうか。

本当の自分を知るのは怖くなりそうなものですが、栄さんは次のようにも言います。

ただ、うまくいったところも不本意さが残ったところも、設楽は栄の意図を正確に汲む。だから気が抜けない反面で安心する。(ふさいでp86)

見透かされるのを気持ち悪がりつつ、安心もする(そして直後に悔しくなる)と、何とも複雑な感情…。本当の自分を分かってもらえているからこその安心感なのだろうと思います。
こうしたことが繰り返され、「いつだって栄の理解者だった」(ふさいでp119)につながるんですね…

そんな比喩的に使われていた「鏡」が実物として登場するのがこの場面。長いですが引用します。

手の甲で顔をぐいっと拭って鏡と向き合えば、そこにいる設楽とも相対することになる。
(中略)
握った拳を、鏡の中の設楽に叩きつける。手のひらの側面だったので、割れはしなかった。
「弟いじめたやつが憎い、許せねえ、だったらてめえ個人で殴るなり殺すなりしろよ、こっちを巻き込むな」
「お前、ほんとにそんなこと思ってるのか?」
静かな問いだった。鏡の表面はまだかすかにふるえているというのに、設楽の目は揺るぎもしない。
(中略)
栄は振り返った。生身の設楽も、当たり前だが鏡と同じく凪いだ表情だった。
(中略)
設楽の冷静さがいやだった。ひどいよな、奥は、あんなことをするなんて最低だよ—そう、睦人を責める言葉を聞きたかった。それで溜飲が下がるとか下がらないとかじゃなく、まだ未消化の憤りや疲労をあらわにしてほしかった。なのに設楽は、あくまでプロデューサーであり、プロデューサーでしかなかった。一緒に睦人を罵倒したいかと言われればそれも違うのに、いったい何に打ちのめされているんだろう。(ふさいでp99-102)

奥さまの事件後、鏡越しから始まる2人の会話です。
鏡を前にする描写は、気持ちの収拾がつかない栄さんが、自分の混乱と向き合う様子を表しているよう。
直前まではお酒に逃げていましたし。

そして、本心を聞き出そうする設楽さんの言葉は、実際の鏡よりも鮮明に栄さんの混乱を引き出しています。
気持ちの整理はつかないままですが、設楽さんに怒りや疲労を見せてほしかったということははっきりしたんですよね。
それにしても、要所要所で普段とは違う設楽さんを見たがる栄さんが愛おしい。「ゆるして」での疲れているところを見せてあげてほしかったです…

このように栄さんと自分自身を向き合わせた「鏡」ですが、のちに設楽さん本人の発言にも登場しています。

「…それに奥さまにとっても、カメラに向かって胸の内を吐き出させるのはいい体験だと思ったんだよ。セラピーって言ったらえらそうだけど、カメラにしゃべるっていうのは、たぶん鏡の中の自分と対話することなんだろうな」(とどまってp4)

設楽さんは“カメラ=鏡”と指摘。それに加え、奥さまにとっては撮影者が設楽さんというのが大きかったかと。栄さんもそうでしたが、「鏡」にダブルで来られたらお手上げですね…
でも他人の本心を露わにさせるのは苦痛が伴うもの。設楽さんはそれを引き受けているのだと、栄さんはちゃんと分かっているのが素晴らしいです!

ちなみに、カメラに関しては「ひらいて」での三芳さんの撮影も同じことが言えそう。

ティムとの思い出を語るうち、三芳の、テレビ映えにこだわる仮面がすこしずつ地の顔つきと混ざり、微妙に変化していく。(ひらいてp51)

どこか憑きものの落ちたような、すっきりした声で言う。(ひらいてp53)

今度は本心を聞き出す役割が栄さんに。お互いが、相手に向けられている他人の感情をそれぞれ引き出す構図が見事です…

ところで、三芳さんが隠していた事実を吐き出しすっきりする姿。これが栄さんのセラピー(!)によるものだとすると、逆に設楽さんの嫉妬を買いそうだなと思ってしまいました。

この場面から少し遡ると、実物の「鏡」が出てきます。

「何をそんなに怖がるんだ?」
設楽の目はルームミラーを—ルームミラーに映る自身の瞳を—見ていた。
「お前は俺のことなんか、いくらでも踏みつけにしていいんだ」(ひらいてp32)

今回、鏡と向き合っているのは設楽さん!瞳を見ているし、これはもう合わせ鏡みたいなものでは…
栄さんの気持ちを尋ねるとき、よく設楽さんは目を合わせてきますが、ここではそうしていないんですよね。「何をそんなに怖がるんだ?」と聞いてはいるものの、栄さんの思いはもう分かっていると考えているからかなと。

初めて設楽さんが話した「踏みつけにしていい」との思い。ルームミラーで自身の目を見ながら告げていることで、これが明らかな本心だと強調されているように感じます。
さらに、11年前からずっと抱えてきただろう気持ち(というかエゴ)を、自分の中であらためて確認する意味も含まれているような。

まぁ何にせよ、「ごめん」すら嫌がった栄さんには酷な言葉だなと思ってしまうのですが…でも栄さんがお似合いだと言っているのでもう何でも良いです!


これからも栄さんは、設楽さんという「鏡」を通して自分の心のうちに気づいていくのでしょうか。自分を客観的に見るのは難しくて怖いものですが、色々な感情を知っていってほしいです…

蛇足ですが、王さまは鏡を見れば裸だと気づけたのにねと思ったりしました。
終わり方が雑ですがこれにて。


〈引用文献〉
一穂ミチ「ふさいで」(新書館、2018年12月)
一穂ミチ「とどまって」(新書館「ふさいで」購入特典書き下ろしペーパー、2018年12月)
一穂ミチ「ひらいて」(新書館、小説Dear+フユ号Vol.76、2020年1月)

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