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2021/04/05 月:泡だらけの洗面所、悲しそうな顔の母。

テレビで「親の失敗を見たくない」という話題を見かけた。たしかにそうだ。親はいつまでも親であり、子はいつまでも子であるから、親の無謬性というようなものを信じていたい気持ちがある。これが叶わないと、人はいたく傷つくものだ。

僕がつよく記憶に残っている親の失敗は、25年ほど前に遡る。

当時我が家は貧乏で(いまも裕福ではないが)、けっこう長い間、二層式の洗濯機を使っていた。二槽式はとにかく丈夫で壊れないし、当時まだ一層式の全自動洗濯機は高価だったため、買い替えのタイミングがなかったのだ。

しかしある日、二槽式の洗濯機が壊れてしまった。母は、長年の夢であった全自動一層式洗濯機を手に入れるチャンスを得たわけだ。

子供だったので、当時の我が家にとってあの洗濯機がどれほど高価な買い物だったのか覚えていないが、届いたとき母はとてもうれしそうだった。洗濯機を使うことのない僕にまで「これはね、ボタンを1つ押せば全自動で脱水まで終わるのよ」と何度も話していたことは、覚えている。

そして初運転のとき。

洗濯物を入れ「ボタン1つ押」して母は洗面所から出てきた。せっかくの初運転なのだから見ていればいいものを、あとは全自動で終わることを実感したかったのか、母はダイニングチェアに座って洗濯機の動作音を聞きながらコーヒーを飲んでいた。

40分後、洗濯が終わると、洗面所から母の悲鳴が聞こえた。本を読んでいた僕が駆けつけると、洗面所が泡だらけだった。

全自動なのだから、洗剤の計量も自動だと母は思ったのだろう。しかし、その機能が洗濯機に実装されるまではあと20年ほど待たなくてはいけなかった。全自動一層式洗濯機は、トレイいっぱいに注がれた洗剤を一度の洗濯で使い切ったのだ。

泡だらけの洗面所という非日常空間が楽しくて僕は笑ってしまったが、母を見るとなんとも悲しそうな、切なそうな顔をしていた。夢の全自動一層式洗濯機に期待を寄せすぎた母自身、それが「夢の」製品だったという家庭の状況、僕に洗濯機の自慢をしていた数十分前の光景、これらが全て消えてしまえばいいのに、というような。

これが、僕の記憶にある「親の失敗」だ。いまでも思い出して、ときどき寂しい気持ちになっている。

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