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食べたいものを、つくればいい。|2020年頭の言祝ぎと、帰ってきた中動態

今年の正月には、年末からずっと気になっていた『読みたいことを、書けばいい。』(田中泰延)という本を読んだ。これが私的ベスト「2020年始の言祝ぎの書」だったので、それについて書きたい。

読みたいことを、書けばいい。

著者が発するメッセージは本のタイトルのとおり、この一言に尽きる。

本書では、「自分が読みたいものを書く」ことで「自分が楽しくなる」ということを伝えたい。いや、伝わらなくてもいい。すでにそれを書いて読む自分が楽しいのだから。自分がおもしろくもない文章を、他人が読んでおもしろいわけがない。だから、自分が読みたいものを書く。(同 p.6)
読み手など想定して書かなくていい。その文章を最初に読むのは、間違いなく自分だ。自分で読んでおもしろくなければ、書くこと自体が無駄になる。(同 p.99)
書いた文章を読んで喜ぶのは、まず自分自身であるというのがこの本の主旨だ。満足かどうか、楽しいかどうかは自分が決めればいい。しかし、評価は他人が決める。他人がどう思うかは、あなたが決められることではない。(同 p.114)

文章を書くという行為において立脚するべきは、他人ではなく、自分であるべき。ただそのことが、シンプルに、時にユーモアを交えながら饒舌に、わかりやすく紐解かれていく。

特にグッときたのが、タイトルの語尾だ。「〜すべき」でも「〜しなさい」でも「〜せよ」でも「〜しましょう」でもない。「〜すればいい」という絶妙な立ち位置から書かれているのが良い。一見しただけでは「書けばいい。」というのは少し突き放されたニュアンスがあるが、中身の文章を読めば、その言い方こそが読者に対する著者の愛なのだとわかってくる。「自分が読みたいものを、自分で書けばいいのですよ」と。これから文章を書こうとしている読者(=私)に丁寧にスタート地点を示して、書き始める私の一歩目を「そう、それでいいんですよ」とほんのりと優しく肯定してくれる(優しさが過剰ではないのが、また良い)、そんな感じだ。

まず、書いた文章を自分がおもしろいと思えれば幸せだと気がつくべきだ。それを徹底することで、逆に読まれるチャンスが生まれる。(同 p.114)

読後に、なぜ自分がこの本を読みたいと思ったのか、その答えがすっと腑に落ちることがよくある。この本もまたそうだった。どういうことか。

それは以前に書いた「何のためにドーナツをつくっているのか問題」へのアンサーソングでもあったからだ。

何のため(誰のために)につくるのか?

私は2019年11月28日に「究極的に言えば(ドーナツづくりは)自分が楽しいからやっている」と書いた。あれから年を跨いで1ヶ月後、この『読みたいことを、書けばいい。』によって、そこで提出したテーゼを、より確かなものにしてもらえたような気がした。

読書ももうすぐ終わろうとするところで、このメッセージ(「読みたいことを、書けばいい」)は、そのまま、ドーナツをつくることにも同じように言えることに気がついてしまった。

つまり、「食べたいものを、つくればいい」のだ。

ドーナツが好きだ。味も食感も見た目も好きだし、物体いや概念として好きだ。自分が食べたい素材で、食べたいレシピでつくり、真ん中に穴の空いたドーナツという存在がこの世に生まれる。そして(ここが一番大事なのだが)自分が1人目の食べ手となる。わ、おいしいじゃん。と。

それが幸せではないか。まずそれで、幸せではないか。

脳内でどよめきが起こった。

繰り返しになるが、もう一度引用する。

書いた文章を読んで喜ぶのは、まず自分自身であるというのがこの本の主旨だ。満足かどうか、楽しいかどうかは自分が決めればいい。しかし、評価は他人が決める。他人がどう思うかは、あなたが決められることではない。(同 p.114)

「おいしい」と満足するのは自分で決められること。一方で、それが商品となって買ってもらえるかどうかは、また別の話、あくまで他人の評価の話だ。そういうふうに分けて考えられると途端に、「何のためにドーナツをつくっているのか問題」は、決着する。

いや、決着したかに見えた。

いつもならこの手の文章は最後に一言入ってここで終わるのだが、めずらしく今回は終わらない。もう少し続きがある。

あるテクストによって導かれた。

『読みたいことを、書けばいい。』も読み終えた後の正月休み最終日、アーツ前橋で行われていた『表現の生態系』を観に行ってきた。これはこれだけで、またひとつ別の文章を書けるほどとにかく含蓄に富んだ展示だったが、今はその展示全体については省き、展示を通じて偶然起きたあるひとつのテクストとの出会いに限定して記述する。

会場の順路の中に同展のコンセプトブックが無造作に置かれており、ぱらぱらめくると妙に惹かれる文章があった。

「生」に立脚するといのは、社会やシステムの「外」に立脚することだと言い換えてもよいだろう。

これはアーツ前橋で学芸員をされている今井朋さんという方によるものらしく、その脇には注が入り、この言及は『プシコ ナウティカ ーイタリア精神医療の人類学ー』から引かれている、あるいは参考にされていることが指し示されていた。

「プシコ」? 知らない言葉だった。「ナウティカ」は、あの「ナウシカ」と同じだろうかと思った(もしかしたらその直前にNHKで観た尾上菊之助のドキュメンタリー番組が、頭の中で補助線的に働いてくれたのかもしれない。あるいはそれはちょっと自分に都合の良すぎる見方かもしれない)。

ともかくその後、大満足で展示を観終え、会場入口隣に設えられたライブラリースペースで一服していると先ほど注に書かれていた参考文献の背表紙が目に飛び込んできた。思わず手に取り、ページを繰る。該当箇所はすぐ見つかった。こうだ。

ただ、「生」に立脚するというのは、地域での精神医療サービスの民族誌を書くということにとどまるわけにはいかない。それだけでは、精神病院を一つの「社会」、一つの「全体」として描き出そうとしてきた精神病院の民族誌を、地域へと拡張したにすぎない。「生」というのは、制度やシステムをはみ出している過剰なものであり、それゆえ不可避的に、制度やシステムを踏み越えてしまう局面がある。(『プシコ ナウティカ』 p.15)

引用しておいて何だが、今回重要なのはここではない。

この箇所のずいぶん後の章に見つかった「中動態」の文字、そっちだ。中動態・・・読者の皆さんには何のことやらであろうが、私にとってこの言葉は2019年に出会った数ある語のなかでもベスト3に入るであろう、重要なキーワードであった。昨年の春に『居るのはつらいよ  ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)』で出会ってからというもの、すっかり虜になっている。

説明のためにかなり粗めに言ってしまうと、現代では常識となっている「能動態/受動態」という二項対立は、昔の言語では存在せず、そこには「能動態/中動態」という対立があった。(詳しくは『中動態の世界  意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) 』を参照のこと)

『プシコ ナウティカ』にはこうあった。

例えばサンスクリット語には、態としては能動態と中動態の二つしか存在しない。前者が、パラスマイパダ(para-smaipada = 他者のための語)と呼ばれるのに対し、後者はアートマネーパダ (atmanepada = 自らのための語)と呼ばれ、その行為が他人のために為されるか、行為者自身のために為されるかで通常区別されている。例えば、「筵をつくるka.ta.m karoti(能動態) / kurute(中動態)」という行為でも、それが能動態をとるか中動態をとるかで、その筵を他人のために作るのか、自分のために作るのかという意味の違いが出てくる。(『プシコ ナウティカ』 p.340)

これだ。

(自分が)食べたいものを、(自分で)つくればいい。

先ほど『読みたいものを、書けばいい。』を引用しながら、立脚すべきは他者ではなく自己なのだと書いた。そしてその後、自分がおいしいと思えるドーナツをつくればいい、と書いた。

「能動態/中動態」の整理でいくと、他人のためにドーナツをつくるのは能動態で、自分のためにドーナツをつくるのは中動態なのである。ははーん、なるほど。

自分の行動が自分に向かって作用するかどうか、つまり難しめの語彙で言えば「主語の被作用性 affectedness of subject」(『中動態の世界』p.81)があるかどうかが、両者の違いを生む。

まだ生煮えの状態なので、むやみやたらなことは言えないものの・・・自身の日々の実感と、さらにここまでの話を踏まえると、自分のためにドーナツをつくることは幸福につながる。つまり、ざっくり言ってしまえば「自分の行動の作用が自分に返ってくる方が(中動態の方が)、幸せな感じがする」ということになる。

だからやっぱり、自分が食べたいと思えるドーナツを、自分でつくればいい。そしてその自分が好きなドーナツを皆さんにお裾分けする。世の中の商売の常識からすると、いくぶん自分勝手度合いが強めかもしれないが、そこを出発点とすることに、自分は大いに賛成したい。

ちなみに、「自分ためにつくる」は自分への直接的な作用であり、それは作用の円環の最小単位に過ぎないとも言える。他者を経由して自分にまた返ってくる(例えば、ドーナツを買った人が喜んで食べてくれて、次の日にお店に来て感想を私に述べてくれた、とか)というのも、少し大きな円環としての被作用性に含まれるのだと思う。

この10年、小さい単位のコミュニティに少しずつ惹かれ、好ましく思うのは、自分の行った行為の「作用」が見えるかどうかという基準を大事にしているからだし、都市部よりも郡部(ローカル)の小さなまちの方が、その作用の円環がわかりやすいから、いまここでこうして暮らしているのだと、改めて言うことができる。

「読みたいものを、書けばいい。」は中動態だった。

そういえば、昨年末、2020東京パラリンピック閉会式の演出を務めることで話題になった小林賢太郎さんが、かつて自分の表現の場を劇場にこだわる理由として、お客さんからの反響が全て自分の見える範囲でわかるからといった趣旨のこと(実際はもっとスマートに答えていたと記憶する)を何かで答えていたことを思い出した。彼もまた、中動態を生きる人と言えるのかもしれない。

ともかく、お正月というものを意義なきものにしがちな自分にとって、2020年のお正月は画期的で、幸先がよく、気分がとてもいい。2020年も、中動態でいこうと思う。

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