道端の片手袋

 この世の芯に触れているみたいに寒い夜で、わたしの口のなかだけがとても熱い。だから少し頭がこんがらがっちゃう。「真ん中はとても熱いもの」だという知識があるから(地球の内核とか、たぶん、生き物の身体もなかの内臓がぐちゃぐちゃに熱い。これは知識じゃなくて感覚的なことかもしれない。でも、私には知識と呼べるほどの知の蓄積もないから感覚だけでなんとなく生きていくほかにやりようもないし)なんだか裏表がひっくり返っちゃったみたいな不思議な感覚。地球の芯よりわたしの口のなかのほうが熱いから、地球の中心はわたしなのかもしれない。そんなわけはないけれどそう信じさせてくれる歌もあるし、それを聴いていると自分がさしてわがままだという気もしなくなる。
 わたしは内核で、そこからずっと離れたところでみんな勝手に生きている。眠ったり怒ったり突然流れた涙に戸惑ったりしながら生きているのが気にくわないから地殻変動を起こしちゃおうかな。そしたら誰も眠くならないし怒らなくていいし、胸を痛めたことさえ忘れ去るの。忘却の彼方はわたしの手の中。まさか!まさに!A-B間リピートは光のまにまに。わたしが思ったことはすぐに実現しちゃう。まさか!まさに!だって今日も行くあてがないからガードレールを殴ったら右手がすぐに熱くなってそこが内核になってしまったし。すべてわたしの思いのまま。きっと誰よりもわたしがいちばん繊細で傷つきやすくて(実際に、さっきまでなんともなかった右手は痛いし)かわいそうだから何をやってもたぶんOK。だからって、見知らぬ人に縋り付いたりよく知ってる人に連絡したりもしない。わたしが日々の隙間にずっと考えているあなたは(わたしの毎日は隙間だらけだからもうわたしにはあなたしかないけれど)少し距離を置きたがっていることにも気付いているし、わたしはなんでもわかっている。芯が冷たくてわたしだけ熱い。たまにはこんな気分に浸らせてよ猫殺すッ!

 小瀧橋通りの蒙古タンメン中本を出て深夜の通りを歩いていたら酔っ払ったサラリーマンに絡まれてめちゃくちゃウザい。
「仕事帰り?これから仕事?」
 しばらく無視して歩いていたんだけど、しつこくついてくるからつい、相手の質問に反応しちゃった。
「学校帰り」
「へー、そうな......」
「解剖学の授業がある日って、何故か帰りに蒙古タンメンの北極食べたくなるんですよねーキャーッハッハッ!!」
 文字に起こせるくらい明晰に笑い声を立てて、それでそのまま息が続く限り笑い続けてみようと思った。怒るみたいに苦しむみたいに八つ当たりするみたいに声を上げる。
 もうなにもかもわたしの思い通り。男がわたしをゼロの目で見てる。わたしを通り越して、そのずっと先を見ている感じ。わたしが透けて見えなくなってしまったような。

 わたしは、もう考えることをもう止めにしたかったので、自らの手で脳みそを握り潰しました。 柔らかな人体ブラマンジェが、ゆびの隙間から垂れて零れます。 そしたら蟻さんがたくさんやってきて......そう、奴らは神出鬼没、用意周到です......わたしの殻に群がり始めました。 わたしは、食べられることってくすぐったいんだなと感じました。 踊り喰いの白魚も、食べられているときはこんな風に感じるのでしょうか。 いいえ、彼らは自分の体よりももっともっと大きい動物に一気に噛み切られてしまうのだから、くすぐったいどころの騒ぎではありませんね。蟻さんの小さな口は、わたしの殻をゆっくりと解体していきます。 食らいつくその口が肌に触れるその触覚に、わたしはなにか、性的な愛撫のようなものを感じたのですが、そうは言っても感じている身体はもう消えつつあるので、あまり愉しい気分になってはいけません。私の殻は蟻さんにすっかり喰いつくされ、最後には空っぽになってしまいました。 透明な存在だけが、そこにはしいんと残っています。
 「透明な存在」。
 へんな言葉です。 「透明(無い)」なのに「存在」していて、「存在」しているのに「透明(無い)」だなんて。 はたまた存在とは、往々にしてそういったものでもあるのでしょうか。
 大いなる疑問が頭のなかを駆け巡り、わたしはしばらく考えたのですが、通りを歩く人々にとっては、そんなことはどうでもいい問題で。
 「透明な存在」を「透明な存在」として認識することもなく、わたしの殻があった、今では何も無いこの場所を通過して行きます。

わたしの殻があったところには、衣服だけが散らばっていますが、みんな、それさえ無いように、コートや下着を上手によけて歩いていました。

 往来、往来、人の群れ。
わたしに声をかけてきた男も、すっかり何も無くなった場所から立ち去ろうとしています。その千鳥足に絡みつくわたしのカーディガンはじゃれつく子犬を連想させましたが、男は慈悲もなく可愛い毛むくじゃらを蹴り上げ、車道へと吹っ飛ばしました。

ガードレールの向こう側で、子犬は車に轢かれてしまいます。コートも靴も向こうに飛んで、犬と一緒に引き伸ばされたり、車輪に引きずられどこかに運ばれて行ったりしている様子です。

 右手の手袋だけが、ガードレールに引っかかて歩道側に再び落ち、命拾いをしました。
 それを見て私はようやく、自身が抱えていた長年の不思議に決着をつけることが出来たのです。

 道端に時々落ちている片手袋やら片側だけの靴がどこからどのような経緯で発生しているのかという謎。
それにはこういったからくりがあったのですね。
私はすっかり気分がよくなり、透明な体から透明な笑い声を出しました。

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