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"聖徳太子"という存在についてボンヤリ考察


何故私たちは聖徳太子を知っているのか。
冠位十二階?
十七条の憲法?
遣隋使の派遣?

冠位十二階は、「家柄関係なく有能な人物を登用しましょう、身分によって色分けしましょう。」
十七条の憲法は、「和をもって尊しとしましょう、官僚たるものの心得です。」
遣隋使は、「日本という国の天子が、隋の国の天子に挨拶に来ましたよ。今後もよろしくね。」

で?

冠位十二階は豪族の権力を牽制するために、
十七条の憲法は官僚に倫理観を持たすために、
遣隋使は隋との国交を保ち、先進国の文化を吸収するために、

この事業だけを見れば
日本を対外的にも認められる国にするために内政を整え、外交も積極的に行なっていった有能な大政治家に見える。

でも、なんか本質を欠いているような気がする。

聖徳太子のモデルと言われる厩戸皇子は、19歳の時に推古天皇の摂政となって蘇我馬子と共に行政を行なっていった。
次々と施策を打ち立てるも、途中で飛鳥の都から離れた斑鳩に拠点を移す。
そこからは表舞台に出ず、ひたすら仏教に帰依し、突然消えた。

んー?

何でこんなに、この時代になっても名前が残っているの?
なんか、すごいすごい言われてるけど
じゃあ、「どう凄いのか」の説明がしにくいと思うのは何故?

まず、そもそも
"聖徳太子"という存在は、後世の人が作り上げた神輿そのものであり、
モデルとされる"厩戸皇子"とは全く別である、という理解があると考えやすい。

"聖徳太子"は、その時代時代において、行なったとされる事業を基に
色々担ぎ上げられてきた。

仏教を日本において初めて取り込んだ人として、
日本という国を、対外的に認めさせた人として、
日本という国の官僚制度を改めて整備した人として。

だからこそ、近代、日本の顔としてお札になった。色んな思惑のもとに。

でも、それは"神輿"。
"神輿"だからこそ、本質のスゴさは説明できない。

行なったとされる事業は
確かに"厩戸皇子"と"蘇我馬子"の集合体と思われる、"聖徳太子"が確かに行なったんだと思う。
それを、それぞれの時代の人たちが色んな切り取り方でアウトプットしていった。
でも、"厩戸皇子"のその根底にあったものは、政治的な思惑ではなく、もっと純粋な思想だったんじゃないか。

私から見える"厩戸皇子"は、

「当時新しく入ってきた異文化である仏教のその難解なロジックを、探求し続け、誰よりも理解した天才」
(四天王寺の建立、遣隋使、高僧慧慈から受けた尊敬)

であり、

「それを摂政という立場を持ってして、仏教の世界観を現実世界のレイヤーに落とし込もうと努力した人」
(冠位十二階、十七条の憲法)
であり、

「それが叶わぬ事だと理解しても尚、仏教の研究を行い続けた、愛すべき夢想家肌の人」
(法隆寺建立、勝鬘経研究)

である。

私がずっと感じてた違和感は、
"厩戸皇子"と"蘇我馬子"の集合体である
神輿"聖徳太子"の伝承と、
"厩戸皇子"自体の史実が、私の中でマーブルのように混ざり合ってしまっていたことが、原因。

切り離して、新たな目線で見た時、
それでも私の解釈における
"厩戸皇子"の存在は、素晴らしい。
飾る必要も、新たな伝説を生む必要もない。

その存在をそのまま伝えるだけで
私は十分だと思うけど、
人それぞれのフィルターがあるし、思惑もあるからなんとも言えないけども。
少し残念な気もする。

今日までの理解の変遷や、私の勝手な解釈に対して、きっと当の本人は苦笑いしてるんだろうなぁ
と思いながら、
今日もいつもの掃除に取り掛かることとする。

おしまい

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