生活する中で感じる漠然とした「不安」について
ネットでもオフラインでも僕がよく感じる事
たとえ自分に対する意見ではなくても、自分に少しでも関係がありそうな事象に対する意見に過剰に反応し、不安になってしまう事がよくある。
ひどい時はしばらく何も手につかなくなる事もある。
なんだろう、この違和感はなんなんだろう。
ああ嫌だ、もう忘れたいのに。
その不安の元の意見がさも真っ当な、多くの人に支持されるような意見であれば、自己嫌悪を併発し、さらに深みに嵌まっていく。
正直かなりしんどくて、行動にブレーキがかかるので不便である。
何故こんな気持ちになるのか、どうすればいいのか。
何度も繰り返し、考えてきた。
そこでふと思ったのが、僕が他人からの意見に対して不安に感じるのは「自分の行動を制限されてしまう」と感じた時だ。
「〇〇は××なので、こうするべき」
「△△はどうかと思う」
これら意見が多くの人に支持された結果、社会が自分に何らかの制限をかけてきたらどうしよう、自分の生活に干渉されたら…
僕の感じる不安の根底にあるのは「自分を制限されたくない」という事
それはさながら無理やり首輪をつけられた猫のように、暴れ、叫び、拒絶したくなる感情。
そのようなストレスに晒されていれば、そら疲れるだろうな。
僕はそのストレスの根源に気がついていなかったため、漠然とした不安を感じながら生きていた。
しかし不安の発生源が分かれば、僅かながら対処して軽減することもできる。
ああ、俺はこの意見に対して、こんな理由で、ストレスを感じてるんだなと。
そうすると意見の発信者に対する反発や、軽はずみな反論は抑えられる。じっくりと問題の本質について考えられるようになる。
気がする。
昨今のTwitter及びネットのレスバトルに嫌気が差した上で考え、到達した自分に対する回答だ。
個人的に思うのは、攻撃的なレスを
する人は同様のストレスを抱えていて、自分でも理解出来ない不安な感情を、意見の発信者にぶつけているんじゃないか。
それはまるで、お腹が空いて泣き叫ぶ赤ん坊のように
そう考えると、巷で感情的なやりとりが頻発するのも理解できる。
インターネットの発達で誰でも意見を簡単に発する事が出来るようになった。
そのためこの様な本人も処理できない心の「叫び」も簡単にぶつけられるようになった。
話し手も受け手も、お互いが落ち着いて考えて、自分のストレスの根源に向き合う事が出来れば、今より穏やかなやりとりが出来るのではないか。
そんなふうに思ったのでした。
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