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鬼は内

今年も節分が近づいている。節分と言えば「豆まき」。「鬼は外、福は内」と言いながら豆をまく、あの「豆まき」である。岡山市にある「宗忠神社」(黒住教の教祖黒住宗忠が祀られている)では、その「豆まき」で「鬼は外、福は内」と言わずに、「鬼は内、福は内」と言って豆をまくそうだ。

そもそも、なんでそんなかけ声になったかと言うと、宗忠神の奥さんが言い間違えたからだという。やり直すという奥さんを止めて、「うちくらい鬼を家の中に入れてあげたらどうだ、鬼もかわいそうじゃないか」と、そのままにしたことが原因らしい。なんとも心の広い神様だと思う。

「鬼は内」は、宗忠神社だけでなく日本全国には、いくつもの神社で使われているらしい。何年か前、映画の河瀬監督が東大入学式の祝辞の中で取り上げられていた。鬼(悪)を自分の外に追いやるのではなく、自分の中に取り込んで考えることの大切さを伝えたかったのだと思う。

私もこの考え方に賛成だ。たとえば、「戦争」は「悪」で「平和」は「善」という、二元的な対立概念でとらえると、日本国憲法第9条のように「軍隊を持たず、戦争をしない」ことが、「平和」であるような誤解を生んでしまう。「軍隊を持たず、戦争をしない」ことは、「他国の植民地」であるということで、「宗主国の軍隊の支配下にある」という意味であることが見えなくなってしまうからだ。

米軍基地の辺野古移設問題は、政府も県も関係がない。日本を支配する米軍によって、普天間基地周辺の住民の人権が制約されていることが問題なのだ。米軍に対して治外法権を認めているのは、日本の法律である。また、その根拠を9条に求めるのもおかしな話ではない。憲法は最高法規なのだから。

憲法を変える必要はあるが、変えたところですぐに国民の意識が変わるわけではなかろう。ただ、われわれ日本国民は原爆死没者慰霊碑にある「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」という言葉を発した主体であることを、かみしめるべきである。

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