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師弟関係と厳しさについて

以前、苫野一徳氏の論考を引きつつ、「教師の仕事の本質」を〈信頼〉〈忍耐〉〈権威〉の3点を良い教師の資質とし、このうち〈権威〉が最も重要だと、拙論に書いたことがある。ここでの〈権威〉とは勿論、保身のためのさもしい夜郎自大でもなければ、学生を萎縮させるような恫喝や打擲でもない。知的な人品骨柄の中に胚胎する、相手を畏怖させる力である。学問的な鋭利さには常に威圧感が伴う。優れた研究者に接すると、その鋭さゆえに醸し出される独特のアウラに気圧されるのが常である。その深層にあるのは、自らの浅学菲才さが看破される不安かもしれないし、到底跂及し難いことへの劣等感かもしれない。あるいは、論破されることに対する懼れかもしれない。いずれにせよ、真に怜悧なる人間には、ただそこに佇立しているだけで、接する者を圧倒する本然の力が存する。文弱なるアカデミシャンでも、静謐さの中に猛々しさが透けて見えるのである。そして、こうしたアウラに導かれて、親炙が始まる。かつてはそう思っていた。しかし、最近考え方が少し変わってきた。素朴に考えて、威圧感を与える教師はよくないと。それが仮に知性に由来するものでも、である。

だいたい、威圧感のある教師は学生を萎縮させるか反発させるだけで、教育的には大して奏功しない。圧は思考停止を生む。そして、学生への態度や教育的構えは無意識裡に師資相承されている。エピゴーネンの再生産である。厳しさも甘さも優しさも学統の一部として反復されていく。恐るべきことだが、これは教育の本質でもある。弟子は師匠から情報だけを受けとることはできない。情報の伝え方や師匠の佇まい、振る舞いについても同時に学びとるのである。

そもそも、教育がビジネスの語法で語られ、大学の自動車教習所化が加速する中で、師弟関係という発想自体が時代遅れになりつつある。教育を経済のワーディングで語ることや大学の自動車教習所化については徹底的に抗わねばならないが、峻厳な師弟関係については再考されねばならない。教師のある種の厳しさは師資相承された自覚なき反復、そうでなければ教師自身の不全感や嗜虐性に起因するのだと、精神医学や心理学の知見をベースに、最近強く思うようになった。

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