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まいにちを指でたしかめる

今日で24歳になった。

「年齢とか人間が勝手に作ったものでしょ〜
ハレとケを区別するために祝ってるだけよ〜」
私の中の民俗学口曲がりおばさんが、ゴミ置き場のそばでそう言っているのはおいといて、


誕生日はうれしい


「誕生日は喜んだっていい!!
だって、そうだろう?たとえ誕生日が重んじられるのが、購買意欲を駆り立てるから資本主義に好都合だからだったとしても、
誕生日はたのしい!!」

左寄りぺこぱが脳内で暴れ回っているが、
時を戻そう。


どうしてこの文章を書き始めたかというと、
結果から言います。

誕生日だからです。

未経験から一千万稼ぐ方法を教えてくれる30代セミナー講師みたいな言い方になってしまったけど、ほんとにそうです。(なんでこう言う人たちは結果から言います、のとかあんなドヤっとしてるんだろう、しかも大概しょうもない)


23と24を節目として区切らせていただくならば、24の年は、生活をひとつづつ手にとって確かめたいと思う。

どういうことかというと、自分のことを話すのはすこし恥ずかしいので、自称サバサバ系女子のトーンを借りよう。

「あたしってさ、なんでも待てないタイプじゃん?
それって、常に暇に対峙できないからなワケ。
え、わかるよね!?ね!ね!

んで、あたしって結構考えるタイプじゃん?しかも世界についてとかわりとどうにもならないことについて。
だから、ちょっとでも考える隙がないように、
目標とか作っちゃうんだよね〜〜。
え、だよね!それな〜!!」


(コイツとは飲みたくねぇ、と思ったそこのあなた、この子は相手の応答に返事しているだけ全然2時間は居酒屋行けます。時々こっちのリアクション無視して話してくる人いるけど、あれ近々軽犯罪にしてほしい。)


とにかく言いたいのは、わたしは目的に盲目になるのが生きやすくて、毎日の密度に疎い。

毎日には、いろんな声、匂い、触感、色、味覚
がある。
いや、ある「はず」だ。

私は日々のうつくしさを捕まえるのが苦手で、
これらがあまり見つけられない。


でも、23才でいちばん感じたのは、毎日の感情が世界であって、それ以上でも、それ以下でもない、ということ。



でもずっと、嬉しい、楽しい、の感情でいたいわけではなく、沁みるぅ、とか、しびぃー、とか心でしか味わえない感情も欲しいのだ。

感情はめんどくさい。
そもそも理由から感情が生まれるのではなく、
感情の理由を探してしまうことが多い。
そんな時は色々考えるのだけれど、結局ぽっかりと穴が空いて、ぽたぽたと泣く。


ぽたぽたと流れた涙は、流れた瞬間にわたしのものではなくて世界のものになって、
感情はまたとろとろと体液に溶けて、
なかなか思い通りにならない髪型を押さえつけてるうちに、
跡形もなくなくなっている

24歳は、いろんな色のなみだがこぼれるといいな






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