「この番組はフィクションです」

 結論らしきものは無い。あるいは「考察」的なるものをからかい続けるTV番組について、「まとめ」らしきものを書いても仕方がないのかもしれないが、ともかく。一応、警告しておくと、以下の文章では『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』の内容に踏み込んでいます。





 『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』は、いかにも奇妙奇天烈な番組であった。いわゆる「モキュメンタリー(疑似ドキュメンタリー)」に属する試みを、年末特番の「情報バラエティ番組」に擬態させたTV番組といえるだろう。とはいえ、『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』は『放送禁止』とは明確に異なる試みをやっている、と確信を持って言い切りたい。奇妙な居心地の悪さがどうやっても抜けないのだ。その歪さは、番組の最後に映し出されるいくつかのテロップによって生みだされている。

 年末特番の「情報バラエティ番組」という、安心してただただ眺めることのできるコンテンツと思われかねない映像に、イースターエッグは山ほど仕込まれている。「モキュメンタリー」であることに気付いた視聴者は、TVに映っている様々なイースターエッグを拾い出し、「真相」らしきものを見出すであろう。製作者側もその辺りのくすぐりは心得ており、親切にも、各回終了後の短いテロップとネット配信の特別動画によって、「番組内で言及されなかった情報」は提示される。

 しかし、本来「情報バラエティ番組」であれば編集や演出で隠し通すことが自然であるはずの不穏な映像が強調されていること自体の「不自然さ」によって、「モキュメンタリー」としての在り様に歪みが生じている。イースターエッグを仕込んだ素振りを露悪的といっていいほど不自然な演出や編集を通して視聴者に差し出しているので、「番組内の世界(情報バラエティ番組)」と「番組そのもの(モキュメンタリー)」の悪意が二重に襲いかかってくるような据わりの悪さを覚える。『放送禁止』シリーズが謎解き的要素を前面に打ち出したフェイク・ドキュメンタリー番組であるのに対して、『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』は「情報バラエティ番組」と「モキュメンタリー」をねじれたかたちで組み合わせたキメラ的番組だ。一部の視聴者が懸命に映像を見極め、より奥の深い「真相」を見出したかのように思ったとしても、番組の最後に映し出されるテロップ「この番組はフィクションです」によって、これ(=提示された情報)から先は何もないことを製作者側はわざわざ明らかにしている。「映像を隅々まで見て考察すれば、すべてを説明できる一部の隙も無い完全な「真相」を復元できるはずだ」という考察文化的な発想は、「情報バラエティ番組」内の「編集されたVTR」という「完全ではないデータ」しか視聴者には与えられていないという事実によって、無効化されているのだ。(なお、金田朋子回・紺野ぶるま回のいずれも「少女」と「殺し」がモチーフになっている点にも留意すべきであろう。どちらの回も「実録系猟奇ポルノ」として受容されうる題材である。はたして、明らかとなった情報以上の「真相」を探し出そうとする行為と、憶測を逞しくして享楽する行為の境目はどこにあるのだろうか?そもそも、この番組における「被害者」の存在は「この番組はフィクションです」の一言によって宙に浮いてしまっているのだが。)

 そして、「この番組は不自然です」や「不自然だと思ったあなたは自然です」というテロップは、「モキュメンタリー」としてのギミックであるのみならず、通常では「自然」とされる「情報バラエティ番組」という存在自体が極めて不自然なのではないか、という自省的な疑義をも突き付けている。紺野ぶるま回において視聴者が覚えるであろう無力感は、「情報バラエティ番組」におけるフォーマットと強力に結びついているように思える。(現場の顛末はどうであれ、「情報バラエティ番組」であれば、ある程度無難な落としどころは決まっている!)

 この番組の根幹を支えているのは、「情報バラエティ番組」や「モキュメンタリー」といった形式を維持し続けてきた「TV番組」に対する怜悧なまでの悪意と韜晦含みの信頼なのかもしれない。『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』は、「情報バラエティ番組」と「モキュメンタリー」の両方を引っ搔き回してみせた番組として稀有なバランスで成り立っている。「この番組はフィクションです」の一文は、双方を挟み撃ちするための呪文として使われており、単なる紋切型の常套句では無くなっている。

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