漫画家批評②押切蓮介 他者との付き合いかた

まとまった漫画家批評として、第2回は押切連介にする。はりきってはじめた企画だけど、冷静に考えると、作品単独ではなく、作家単位で網羅的に読んでいるひとって、そんなにいないんですよね。もちろん、真鍋昌平と板垣恵介は必ずやりますが、それくらいで終了してしまうかも・・・。



【でろでろ 殴れるおばけ】

最初に押切漫画を読んだのはヤンマガで連載していた『でろでろ』というホラーギャグだった。大学生だった当時の僕は、ドラゴンボールみたいなものを除くとほとんど漫画を読んだことがなくて、サークルの部室に落ちている古い週刊誌を文字通り拾い読みなどして、いろいろな漫画に触れはじめた段階だった。ウシジマくんもそのひとつだったし、その他、青年向けの週刊誌に載っている漫画で、書店員になる前にすでに読んでいたものは、ほぼ、この時期に知ったものだ。そういうことがあるから、僕は立ち読みにかんしてくちを閉ざしてしまうぶぶんもあるのだが・・・。

ホラーギャグというジャンルが、一般に通用する分けかたなのかどうかわからないが、『でろでろ』はそうとしか形容のできない作品だった。「ホラー」が示すことは、たんに、妖怪や幽霊が登場するということであって、こわいということではまったくない。恐怖と笑いは同居するのか、というと難しい問題ではあるが、そもそもここに恐怖はなく、一般に恐怖をもたらすとされている要素が、展開の必要から組み込まれているだけだ。主人公の耳雄は、霊感の強い少年で、襲いくる幽霊や妖怪をぶっとばして問題を解決する。耳雄には留渦という、『ハイスコアガール』の大野さんの当時バージョンみたいな美しい妹がいて、彼女も霊感は強い。そしてサイトーさんというわんちゃんだ。サイトーさんは、基本的に犬の鳴き声しか発しないし、耳雄たちがその内容を理解するということもないが、じっさいには人語を話していて、泣き声の横に括弧でくくった字幕が添えられていて、非常に独特の表現になっている。その他、例の、Tシャツに意味のない熟語やなんかが手書きで書かれている奇抜なセンスも当時から見えていて、そのあたりはいまと変わらない。
でろでろにかんして特異なのは、その恐怖と笑いの共存という、あるのかないのかわからないことより、やはり耳雄が幽霊をぶっ飛ばすという点だろう。ふつう、幽霊とかその手のたぐいのあやかしにかんしては、現実世界の理屈・常識が通用しないところに、恐怖の本源がある。通常の感覚ではありえない出来事、科学では説明できない現象、こういうものに、ひとは恐怖を覚える。科学で説明できる恐怖、たとえば、大きな男に殴られると痛い、だから殴られるのは怖い、という感覚は、幽霊がもたらすものとは別だとここでは考える。だから、恐怖というものが「説明のつかないもの」であるというより、「説明のつかないもの」をここでは「幽霊のもたらす恐怖」としたほうが厳密だろうか。しかし、でろでろに登場するおばけは触れることができる。じっさいには耳雄にしか見えないし触ることもできないものばかりではあるが、読者からしたら同じことである。こういうものが、恐怖の対象になることはない。本来、触れることができない、ばあいによっては見ることもできないこれらのおばけ全般が、触れることができるどころか、殴って倒すことができるとなれば、通常の人間となにもちがわないからだ。だから、耳雄の前で、おばけたちはいっしゅのわびしさを示すことになる。「説明のつかないもの」として「おばけ」の価値を発揮するものが、耳雄の前ではただの打ち倒すことのできる自然現象に変わってしまうからだ。
そしてこのおばけたちの出自だが、特に最初のあたりでは、いわゆる「あるあるネタ」に足場がおかれている。たとえば、カップやきそばのお湯を流すと大きな音をたててシンクがゆがむ、本屋にいくとトイレに行きたくなる、なんだかわからない陰毛のようなものが部屋の床にはいつのまにかたまっている、などといった、誰もが経験し、考えたことのあるようなことの原因が、おばけに求められるのだ。あるあるネタとは、ある種の規則性のことだ。シンクがゆがむのは、熱いお湯をかけたからだろう。本屋に行くとトイレに行きたくなる、という現象を、僕は25年くらいほぼ毎日どこかしらの本屋に通ってきていちども経験したことはないのだけど、まあよく聞く。これも、心理的な理由があるのかもしれない。おそらく、調べるか、じぶんで研究するかすれば、理由を見出すことは可能だろう。たとえば、本屋でもコンビニでもなんでもいいけど、レジ業務を担当したことのあるひとなら誰でも知っていることで、なおかつ担当したことのないひとはおそらく生涯気づくことはないであろう現象に、誰かがレジにいって会計をはじめると、店内にいるものたちがいっせいに集まってきて列をつくりはじめる、というものがある。僕は書店勤めだったが、常連さんなどがレジにきて、ピコピコ大量に買い物をはじめると、立ち読みをしていたひとたちがいっせいに本を閉じ、その常連さんのうしろに並びはじめるのである。彼らはその間、腕時計をみたり、スマホをちらっとみたりして時間を確認し、待たされているアピールをくりかえすのだが、じぶんの会計が済むと、なぜかさきほどの場所にもどって立ち読みを再開するのである。こういうことを、店員は毎日経験しているのだが、たぶん、彼らじしんには自覚がまったくない。これはたしかに、おばけのせいと考えるのが妥当ではないだろうか。

あるあるネタの根本にある、不可解な規則性は、背後に陰謀論的な原因を予測させる。それは、現行の科学では見えていないもので、しかし、向こう側には確固とした秩序があるようだと感じられるとき、怪奇現象となる。かつて少年チャンピオン巻末で連載されていた根本尚の『現代怪奇絵巻』もあるあるをネタにしたギャグだったが、このタイトルに「怪奇」という表現が見えるのは興味深い。フロイトは、ホフマンの『砂男』を分析した論文「不気味なもの」において、ひとがどういう現象を不気味に感じるか、広く検証しており、こたえをひとつに絞れるものにはなってはいないのだが、ぜんたいとして「反復強迫」と「死への欲動(タナトス)」をキーワードとしていたようだった。ある親しみを感じていたものと一時的に疎遠になり(抑圧され)、それが別のかたちで回帰してきたとき、ひとは不気味さを感じるのである。このタナトスという概念は、エロスのように、フロイトの理論を駆動する種類の中心的なものではなく、エロスの理論のさきにどうしても説明できない現象があらわれて、タナトスを想定せざるを得なくなったあとにあらわれた結論である。戦争から帰ってきたある兵士が、くりかえし、苦しいたたかいの記憶を夢のなかで反復する、その症状が、エロスの理論ではどうしても説明できなかった。だからフロイトは、そこに反エロス的な情動があるのだということを認めないわけにはいかなかったのである。それは、フロイトでは、そのような不快な経験をくりかえし思い出すことで、最初の強烈な体験をしないで済むように、からだが準備をしようとしているということなのだ。いわば、死ぬ練習をしているのである。
フロイトの仮説では、タナトスじたいは、消極的なエロス(生への欲動)ともとらえられうるが、経験そのものとしては不快なものにちがいない。だから、不可解な反復を目にしたときに、ひとは不気味さをかんじうる。タナトスを用いれば、このように読むことができるだろう。しかし、僕は別に、腕時計を見て常連さんに圧力をかけてくるひとに苛立ちは感じても、不気味さは感じなかった。これは、一般的にそう考えられるというより、個別の要素が関係してくるだろう。そう考えると、ホラーギャグというでろでろのジャンルも、統一的に解釈できるようになるかもしれない。反復それじたいは怪奇現象である。わたしたちは、そこにタナトス的なものを見出してしまうとき、恐怖を感じる。そして、なにも見出さないとき、そこに滑稽さを感じてしまうのである。では、どんなときにその見解の分岐が生じるか。おそらく、ほんの少しでも偶然的なものが感じられたり、あるいはレジにおけるそれのように、ほんの少しでも解釈の可能性があったりしたとき、それはあっさり滑稽なものに転じる(レジでの現象にかんして僕は、被害者の立場でいることの気楽さが、これをさせているのではないか、と考えている)。しかし、どう考えても理屈が見出せないとき、わたしたちはそれをタナトス的なもの、不安の源泉として受け取ってしまうのである。だが、耳雄にとってはどちらでも同じことだ。彼は、タナトスをぶっ壊す存在なのだ。このことは、彼が幽霊をよく知っていて、ある意味死を超越していることと無関係ではないのだろう。


【ハイスコアガール 理解者としての他者】

ウィキペディアでみれば一目瞭然だが、押切連介は非常に多作な作家である。しかも、ただたんにたくさんの作品を描いているというだけではなく、どれも趣向が異なっているというのがこのひとの天才性である。すべて読んでいるわけではないのだが、そういうさきに、作品的にも、またマーケティング的にも結果を出したのが、スクウェアエニクスから出ている『ハイスコアガール』である。この夏アニメ化もされている。
実は、本作がアニメ化されるということになったのははじめてのことではない。この記事を読まれているかたというのは、まずこの事件のことはご存知かとおもうので、詳細は省くが、劇中使用されていたゲームの画面が、いちぶ許可をとれておらず、その状態でアニメ化が決定し、製作者が確認したことで発覚した、という経緯である。ふつうに考えて、世界最高峰といってもいいゲーム会社が出しているコミックで、許可がおりていなかったと想像するほうが難しいわけで、個人的には作者の擁護をしたいのだが、もう解決した問題でうじうじいってもしかたなので、とにかくそういう事件があったということだけ書いておこう。というのは、この件が生んだいくつかの漫画を読むと、でろでろ時代にはまだ背景にとどまっていたものが、結果としては大きな武器に成長していることがわかるからである。

その件に入る前に、この平均点の高い、完成された漫画について書いていこう。時代は1990年代以降、ゲーム、特にゲーセンでのゲームに命を燃やす矢口ハルオという少年が主人公。当初小学生だった彼も、現在では高校生になっている。ストリートファイターⅡの全盛期で、ガイルを愛用するハルオはゲーセンを唯一の癒しの場としていたが、そこにあらわれたのがクラスの高嶺の花である大野晶で、大野さんは圧倒的なゲーム勘で、使いにくくて有名な(射程距離がせますぎて僕は苦手だった)ザンギエフでゲーセンの猛者どもを駆逐していく。それ以降、ハルオと大野さんはなにかと関係するようになり、ハルオは、じぶんのような劣等生が唯一自己実現できる場所を荒らすやっかいなやつ(しかもじぶんより強い)として大野さんを認識するが、ほのかに、えたいの知れない感情も抱いていくようになる・・・というようなラブコメである。連載中の『狭い世界のアイデンティティー』に描かれたところでは、大野さんのシルエットとともに「媚びを覚えた一般的な作風」という自己評価になっている。じっさい、ゲーセンにあらわれたザンギエフ使いがものすごい美少女で、クラスメートで、しかも恋に落ちちゃう、というのは夢いっぱいだし、展開も自然さよりエンターテイメントとしての機微を優先させているので、あながちまちがってはいないのだが、そんなことはどうでもよくなるほど本作はおもしろい。「おもしろい」以外のどんなフォローが必要か、といいたくなる作品がまれにあるが、本作はそれなのである。
ラブコメということで、中学生になると、ここに小春というあらたなヒロインも登場する。小春は、もともとはゲームをやったことのない女の子だったが、ハルオの影響ではじめてみることで、じぶんがかなりのゲームセンスの持ち主だということを知ることになる。そして、小春もハルオのことが好きになってしまう。大野さんはひとこともセリフは発しない人物であるので、それと比較して小春の積極性は際立つ仕掛けだ。
こういう状況で、恋愛劇は典型的な「公と私の対立」という状況に落ち込むことになる。これは、宝塚歌劇の十八番といってよく、そうでなくても、シェイクスピア『ロミオとジュリエット』以来、くりかえされてきた物語類型である。恋愛とは、その他大勢の他者のなかから、じぶんにしか見出すことのできない価値をもったものを、たがいに選び取る私的な営みだ。だから、多かれ少なかれ、恋愛は公的なものと対立することになる。そのひとの価値はじぶんにしか理解できないと確信し、そして信じ続けることが恋愛なら、当然そうなる。社会に生きている以上、「私」であることを完全にまっとうすることは許されない。好きなところで大声で歌い出していいわけはないし、嫌いなやつはかたっぱしから殴っていいということもないし、わたしたちは、認識しないレベルまで含めて、多くのルールのもとに「私」を抑圧し、社会的価値を構築して生きている。だから、私的な営みである恋愛も、やがては公的なものと対立して、制度をもって変容をうながされることになる。それが結婚という習慣だ。かつての結婚は、人類学的な贈与だった。しかし現代の結婚は、恋愛の社会化なのである。
こうしたわけで、恋愛劇はたいがい、公的なものとの対立を誇張して描かれることになる。ロミオとジュリエットでは、敵対する家に所属するものどうしの恋として、これは悲劇に終わる。教師と生徒、同僚、既婚者どうしといったような、社会的な関係性それじたいが関係を認めない、というようなパターンもあるし、もっと身近に、友人を好きになってしまう、というようなものも多いだろう。いずれにせよ、恋愛は、私的であることを強調する目的で、多くなんらかの他者的事情に阻まれることになる。
本作においては当初、大野さんの家庭教師である萌美がそれを体現してはいた。けれども、それもやがては解消する。もしハルオと大野さんの恋愛を中心にみるとすれば、小春もまた阻害するものということになるのかもしれないが、じっさいはそうではなく、それもまたひとつの物語というふうに描かれている。つまり、私的さは、ひとの数だけあるのであり、それが阻害を行ったとしても、それは公とは呼びがたいのである。
これを達成させるのは、おおくの「大人」たちである。たとえば、ハルオの母親であり、大野さんのところのじいやであり、ハルオの友人の宮尾である。これら、事情を理解した「大人」(宮尾は同学年だが)のサポートが、彼らのゲームライフをまっとうさせてくれるのだ。


【サユリ・HaHa・ぐらんば 理不尽な他者】

さて、ではその他の作品ではどうだろう。ハイスコアガールの萌美は、公的なものの具現とみることができた。これは、私的なものの外部にあるものでありながら、じつは、恋愛の私的さが呼び込んだ、二次的なものである。つまり、ハイスコアガールには「外部」がない。他者がいないのである。

ここでいう他者というものは、ふたたびフロイトに登場してもらって、「おもいどおりにならないもの」のことだ。生まれたばかりの乳児にとっての世界は、海のように連続しており、どこにも切れ目がなく、一体のものとして身体を包んでいる。このときには、じぶんと世界とのあいだに差異を見つけることはできない。しかしあるとき乳児は、母親のお乳が手に入らないという不快を体験することになる。年中口元にお乳があるわけではないからだ。このわずかな不快を感じたとき、乳児の自我と母親(の乳房)が分節されることになる。大きな海のような世界に、初めて太い線が引かれた瞬間だ。そうして、不快なものは、快感原則にはしたがわない、現実原則のものであると分類されて、はじめての「他者」が獲得されることになる。こうした意味で、「他者」の定義は「おもいどおりにならないもの」であると考えることができるのである。
こうしてみれば、ハイスコアガールの世界はいかにも大洋的なものである。むろん、なにもかもハルオのおもいどおりにいくという異世界転生的な世界観ではないので、厳密な意味での他者は存在するが、ぜんたいとしてそうした傾向がある、ということはいえるだろう。この点でやはり萌美も他者ではない。これは、くりかえすように、私的な営みをまっとうしようとした結果あぶりだされてきた公的なものなのであって、その営みが進行しなければそもそもハルオの、そして読者の目に入ってくることすらなかったであろう区画なのだ。

そうした、大洋的な夢いっぱいの世界をエンターテイメントとして描くいっぽうで、押切連介は圧倒的な他者を描き続けてもきた。それは、たとえば『サユリ』のようなホラー作品では悪霊としてあらわれる。
『サユリ』では、主人公則雄一家が引越してきたところからはなしがはじまる。希望に満ちた新しい生活がはじまるとおもわれた矢先、新生活を誰よりも楽しみにしていた父親が急死、それを皮切りに、祖父や姉、弟、母親が次々と死んでいく。家には、かんたんにひとを亡き者にできる強力な悪霊が棲みついていたのだ。しかし、一家が則雄を除いてほぼ全滅したところで、痴呆がすすんでほとんど理性的なことのできなかった祖母が正気にもどる。祖母は、圧倒的な生命力で悪霊、「サユリ」に対抗する。なにか特別なことをするのではない。ただ、きちんと生活をする。家をきれいに掃除し、ごはんをきちんと食べ、早寝早起きして、運動をする。そうして、「命を濃く」する。じっさい、サユリは、祖母がもたらす生命の躍動に圧倒されて、おどかすことはおどかすものの、ほとんど手出しができなくなってしまうのである。
おそらくこの祖母のモデルは、作者の母親である。あるいは、そのまま祖母といってもよいかもしれない。ハイスコアガールの騒動があったとき、押切連介は『HaHa』という特殊な作品を描いている。じぶんの母親の半生について描いた作品だ。これは、『ぐらんば』と対をなして、一種の区切りのようなものと考えることができる。
HaHaの裏表紙にはこんなふうに書かれていた。

「自分をこの世に生んだ人間の半生、
必ずそこには物語が存在する」
「親の半生に関心を持ち敬意を持って人生話に耳を傾けるのも一つの孝行だ」


身もふたもないことをいってしまえば、この作品が描かれた動機は再出発だろう。深く想像しなくても、ハイスコアガールの件が作者にとって大きなショックであったことはまちがいない。現実世界は、ハイスコアガールの世界のような「理解者」ばかりではなく、他者に満ちていたのだ。こうしたところで、じぶんのルーツである母親にコミットしなおし、しきりなおすことは無意味ではないだろう。
この母親は、若いころは不良娘で、割烹旅館の家に住んでいた。この母親の母親、つまり作者の祖母が、ことあるごとに、『サユリ』の祖母のような金言を残していく。ここにおける金言とは、生きる知恵のことであり、経験知がもたらす、「こうすれば結果的にはよくなる」という習慣が凝縮したものだ。じゅんじょとしては『サユリ』のほうが前の作品になるが、両方を読むと、祖母のルーツは明らかにこの、作者の母親(と、彼女に金言を与える祖母)にあるのだ。
『HaHa』には、この母の父母、つまり祖父母が倒れたとき、割烹旅館を奪おうと、よく知らない親戚のものたちが押し寄せる場面がある。このとき祖母は、「私達一家が団結してなかったからその隙につけ込まれた」という。これは、まるきり悪霊についての物言いだ。けれども祖母は、それもしかたないというふうにこれをあきらめる。「憎い相手を憎む程、相手と同等になってしまう」からだ。まったく理解を絶した、圧倒的他者として「サユリ」は家族の前にあらわれたが、旅館を奪おうとやってきた親戚もまた、理解を絶した悪霊に等しい。これに対抗するのが、生きる知恵である。サユリのおばあさんは、しっかり生きることが悪霊を追い詰めると考えるが、じっさいには、それは間接的なものだろう。基本的なことをしっかり行うことが、生命力を強化し、圧倒的他者に対抗する足場をつくらせるのである。旅館を奪おうとやってきた親戚たちは、彼らが弱っていたからこそ、やってきたのだ。この原因を、旅館の祖母は、「団結」していなかったことに求めるのである。
そして、いやらしい見かたになるが、この悟りは作者じしんのものでもある。ハイスコアガールの件で、作者は他者的なもの、「悪霊」に屈しかけることになった。だから、「生きる知恵」がつまった母親のルーツに接近した。誰にも、それぞれの人生の物語がある。いま生きているということじたいが、その証明だ。だから、そこには、少なからぬ「知恵」がつまっている。肉親ともなればさらにその「知恵」は有効なものとなるだろう。そうして、『HaHa』は最後に、「良い事も悪い事も表現できる力が備わっている」ものとしてじぶんが漫画家だということを思い出させ、「ピンチこそチャンス」として、この事態そのものを漫画にさせたのである。

そうした先にあらわれたのが『ぐらんば』だ。これはまたすさまじい作品である。宣伝などでは「ババア無双」などと書かれていた記憶があるが、そのままだ。暴力を受けているおばあさんが、おじいさんを崖から突き落としたら、そのおじいさんが、なんだかわからない、もはや悪霊ということばではものたりない化け物になって、魑魅魍魎を引き連れて攻めてきたのである。おばあさんは竹槍に毒草をぬりこんでこれに対抗、巨大な化け物たちを次々と葬っていくのだ。旅館の祖母は、たたかうことを選ばなかったが、理解を絶した他者・悪霊とどうしても直面しなければならないときがある。漫画ならそれも可能だ。そうして、そのようなものたちとどうやってたたかっていくかが描かれたのが、この『ぐらんば』なのだ。
注目すべきは、たたかいが終わったあと、今度は村を破壊された村人たちをはじめとして人類がおばあさんに襲いかかってくるところである。ここで本作は終わる。これが示すことは、たたかいは終わらないということだ。理解を絶したものは、いなくなることがない。少なくともおばあさんは、彼らとたたかうことを選んだのだ。


【こちら側でよく活きる】

さて、こうしてみると、押切作品では「理解を絶した他者」とどう接していくかが重点であることがわかる。おもしろいのはやはり『サユリ』と『HaHa』の類似点だろう。両者は、ハイスコアガールの件のはさんでいる。つまり、サユリはそれとは無関係に書かれている。にもかかわらず、そこにはすでに「理解を絶した他者」が、悪霊のかたちをとってあらわれている。うがった見かたをすれば、あの件は、作者にその「悪霊」がなにを示していたものだったかを明らかにさせたのであり、そのあとに、自覚的に『ぐらんば』が衝撃とともに登場したのだ。
では、さらにさかのぼって、『でろでろ』はどうなのだろう。でろでろも幽霊が登場する作品ではあるが、彼らは「他者」ではない。出るたびにぼこぼこにされる「おもいどおりにならないもの」なんてあるわけない。ポイントはやはり、でろでろにおいての怪奇現象が、あるあるネタによって見出されているということだろう。これは、根拠を科学やなにか統一的な理論に求めないという点で、母や祖母がくちにしてきた金言としての「生きる知恵」と同列のものなのである。つまり、わたしたちは、反復をもたらす、なんらかの秩序に基づいた並行的なものと共存して生きている、ということなのである。

反復が不安を呼び起こす可能性があるものであることは、タナトスで説明可能だ。でろでろでは、この反復ということだけが、怪奇現象として取り出される。そこに、反復の向こう側にある秩序にコミット可能な耳雄という人物が配置される。そうして、そこからは恐怖や不安が剥ぎ取られ、殴られて泣いているただかわいそうなおばけだけが残ることになる。
「サユリ」のおばあさんがいう「よく活きる」ということは、それじたいではなにを志向するものでもない。ただ、やるべきとおもわれることをやるというだけのことだ。それを支えるのが、金言的な習慣の知恵、つまり、反復がもたらす経験知である。その「生きる知恵」が、わたしたちの生活を、「生活」で満たすことになる。では、なぜその習慣を欠かさないことが「生活」を満たすことになるのかというと、理由はないのである。そうすべきだと感じられたから、いままでそうしてきたから、という、保守的な発想が、根本にはある。なぜその反復が行われてきたか、その原理を、祖母たちは探究しはしない。重要なことは、原理がひそむ「向こう側」の世界ではなく、それが顕現する「こちら側」の世界だからだ。「生きる知恵」は、生きているものが利用するものであって、でろでろの幽霊たちは、放っておけば迷惑をかけてくるものであるから、根本的には異なっている。問題なのは、こちら側で生きているものの態度である。でろでろにも、かつては他者がいたのかもしれない。しかし、耳雄がそれを解消してしまう。反復の向こう側までいって、それをこちらとつなげて一体のものとしてしまう。そうしなければ、このおばけたちは悪霊となってしまうかもしれない。それを回避するために、耳雄は反復の向こう側にある、この並行的な原理の世界を、「生活」の範疇としてしまうのだ。

多くの押切作品においては、他者との対決のしかたがカラフルに描かれているといっていいだろう。しかし、もう少し基本的なことで、そもそもその対決は回避すべきではないのか、という無自覚な懐疑が、特に『でろでろ』からは見て取れるのだ。これは祖母の教えである。これが『ハイスコアガール』を実らせた可能性もあるだろう。そして、その先に、「よく活きる」がある。正面から対決するのではなく、並行的な原理には目もくれず、ただ生活を充実させていくのだ。そして、サユリでは、それじたいが防御であり攻撃になる、という状況が描かれた。ただ活きることが武器になるのであれば、祖母や母が与する金言的な反復は正しかったことになるだろう。しかし、そのいっぽう、人間には直接たたかわなければならないときもある。あの件を経由して、「悪霊」の正体がなんであるのか判明してから描かれた現行の衝撃作が、『狭い世界のアイデンティティー』だ。これは、いままでの読み方ではとうてい追いつくことのできない、すさまじい作品である。反復のこちら側で活きることを足場に、それでもたたかわなければならないときがあることを知った作家が、次に書いたものが、漫画家どうしが能力者的にたたかう、また完成度の高い物語なのだ。いったいなにがどう転んでこういうものが出てきたのか見当もつかないが、ちんけな批評の枠組みなど乗り越えてくるのが、この作家が天才たるゆえんなのだ。

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