殻を破る
卵が嫌いだった。
特に生卵。
物心がついた5,6歳くらい、父親に連れられた養鶏場。
生まれた瞬間の温かい卵に触れて感動したような覚えがあるような。
「このあったかいたまごがひよこになって、ニワトリになるんだな~」
「え?ってことは、たまごって、ひよこのもとってこと?」
「え?ってことは、あのきいろとしろのぼくらがたべてるものから、ほんとうはひよこがうまれるはずだったってこと?」
「え?そんなものをたべてるのぼく?」
そんなような気づきがあったのかもしれない。知らんけど。とにかく確かなのは、その後、俺は卵を食べられなくなってしまったこと。アレルギーではないらしい。だが、食べようとすると、戻してしまうようになってしまった。イメージが先行して、食べるのが辛くなってしまった。どんなに美味しそうに、卵かけご飯が食べている人がいてもダメ。すき焼きでも溶き卵は使えない。「人生、損しているね」と何度言われたことか。
しかし、それでも、卵は嫌いだった。
そこから大学生になるまで、卵は食べた記憶がほとんどない。嘘でアレルギーのところに書くぐらい、避けていた。
2020年。日本をある病気が襲った。
その病気はあっという間に日本全土を飲み込んでしまった。人に会うこと、外に出ること、人間の行動が大きく制限された。それまでの当たり前は当たり前ではなくなってしまった。
そんな時、大学3年生の自分は、暇だった。とにかく暇だった。
家にいるだけで何もすることがなくて、モチベーションも上がらなかった。
だから、料理を始めた。家は共働きだったので、ご飯は自分で用意することになっており、コンビニのご飯や冷食だけだと飽きてしまったから。
「最初になにを作ろうかな~。あ、そうだ、ご飯でも炊こう。」
そんな所から、始まる粒良の自宅お料理生活。
だが、家にある食材はそこまで多くはない。だから、作れる選択肢はそこまで多くない。
粒良の家の冷蔵庫の食材スタメンは、キムチ、ヨーグルト、ベーコン、牛乳、梅干し、納豆。。。
そして、決まって、いつも家の冷蔵庫に鎮座しているものがあった。
それは、開けた扉の上の方にいつもいた。
そう。「卵」である。
なぜかわからないけど、直感で、卵料理を作ってみようと思った。
打ち勝ってやろう。克服してやろう。そして、幼少期から続く因縁に終止符を打とうと。
最初は、ゆで卵から。
水の状態から13分熱湯と共に温める。
茹で上がったら、冷水につけた後、水の中で、身を崩さないように、丁寧に、丁寧に1つずつ殻を取る。
綺麗になった白い肌のような表面に塩をかけて、ほおばる。
「美味しい。」
次は煮玉子。
沸騰した状態から6分半、卵をお湯の中で温める。ゆで卵よりもプルプルした状態なので、さらに丁寧に、1つずつ殻を取る。
そして、酒、醤油、みりん、砂糖で味付けしたタレに6時間ほど、漬け込む。
「超、美味しい。」
そして、ついに、主食のパスタへ。
冷蔵庫のスタメン、ベーコン・牛乳と共に、カルボナーラを作ることを決意する。
塩はお湯に対して、1%弱分量で、パスタは表記よりも1分短く早めに上げる。
ベーコンは厚切りのものを若干太めに切り、先にフライパンでバター、醤油、胡椒と炒めていく。ジュジュウという音と、バターの食欲をそそる香りが充満し、ベーコンの表面がカリッとしてきた所で、コンソメ、牛乳、そして、粉チーズを若干多すぎるかなと思うくらいふりかけていく。
このままでも、最高に美味しいスープの中に、茹でたパスタをイン。
中でベーコンと踊るように混ぜ、牛乳の水分を飛ばしながら、パスタにからませていく。
最後に、卵の卵黄を混ぜると。。。
黄金に輝くカルボナーラが爆誕する。
「激ウマ」
もう、ボキャブラリーが完全にアホになってしまう。
こうして、因縁の相手、卵は僕にとって、いつでも「これがあったらいい」と思う最強の料理作りのパートナーに変わっていった。
ひょんな直感からだった。
大学に入る前、good!という団体で、スリランカという国に2週間ボランティアに行った。
2月にも関わらず、空港降りた瞬間のムッとするような熱気。
どこかから香る刺激的なスパイスの匂い。
一日、何度も何度も来るティータイム。気温も高く、汗もかいているのに、その度に、何杯砂糖入れたの?ってくらい激甘な、しかも、あっつい紅茶が地元の人の輝くような笑顔と共に運ばれてくる。善意の塊だから、断るにも断れない。「ィストゥティー」とお礼を返しながら、「ラサイ、ラサイ」と頂くしかない。
700人くらいの村に2週間のホームステイ。その帰り。
ホームステイ先の弟が「つぶ、行かないで。もう少し居て。」と泣きながら覚えたての拙い英語で訴えてくる。
僕は「ィストゥティー」と笑顔で返しながら、バスに乗り込もうとする。
その時、彼がこう言った。
「なんで、泣いてくれないの?悲しくないの?」
「1番、苦手なこと、短所はなんですか?」
「感情を出して、相手に伝えることです。よく友人からいつも笑顔だけど、本当に考えていることがわからないと言われます。」
「それはなぜだと思いますか?また、どうやって克服しますか?」
「....」
小さい頃から、愛想笑いが上手い子供だった。
というか、それしか出来なかった。周りの友達の話題についていけなかった。「ポケモン」とかいうゲームも、「ワンピース」とかいう漫画も、よくわからなかったから。「塾、本当にだるいよね~」って、知らんわ、行ってないから。
そして、「そだね~」とヘラヘラ笑う。
親にそういうのはダメだと言われていた。お金がもったいなからと。
だから、誘われた野球に打ち込んだ。他にやることもなかった。
でも、挫折ばかり、身長も小さく、センスもなかった。
「下手くそなちびはいらねえ」と監督に練習から外されて、半日グラウンドの外で声出しだけやらされたりした。
「自分って恵まれていないな」と思っていた。
お金のない家庭に生まれ、身長も小さいし、センスもない。
みんなが持っていて当たり前のものを何も持っていないような気がしていた。
その孤立感と辛さを紛らわすように、できることは必死でやっていた。
「欲しい」「辛い」「悲しい」そういった感情を隠して、
笑って、我慢して、頑張る。
そうしていると周りから徐々に認められるようになる。「頑張ってて偉いね」と。そして、結果も出る。高校では野球部でレギュラーになれたし、大学は第一志望に行けた。
だけど、周りとどこかで壁を作っていた。
両親だろうが、友達だろうが、誰が相手だろうが、本当の感情は出したくないって思っていた。弱くてわがままな自分がいるようで、惨めだから。
でも、それでいいと思っていた。
「本音と建前」なんて、誰にでもあるだろうし、今の自分の素直な感情を伝えた所で、別に誰が得するわけでもない。このまま努力し続けて、社会的な成功を収められたら、それでいいのではと。
そこにどんな障壁があっても、目標に向かって、努力し続けること。
弱さを見せず、周りの手も借りず、己の力のみでその障壁を打ち破ること。
そういうことが「強さ」だとずっと思っていた。
社会的な成功、自分の力で貧困で苦しむ人を救う。
そのためにスリランカに行った。
結果、なにもできなかった。
現地の人でも出来ることを現地の人に教えられて手伝っただけ。楽しかったけど、実際、現地の人のためになったかと言われたら、微妙だった。
というより、スリランカに行って、貧困で「苦しんでいる人」なんていなかった。
確かに、経済的な理由で可能性が制限されている部分もあった。「日本にいつか来て」といって、「No money」と言われた時は言葉も出なかった。
でも、彼らは自分のいる村を大切にして、村の人達とはみんな知り合い、会ったら元気に挨拶して、なにかあれば、集まってお祝いして踊って。
みんな、輝くように笑っていたのだ。
だから、貧困だろうと、海外から来た青年達に笑顔で、紅茶を出せるのだ。
だから、別れる際に、自然に涙が流れ落ちるのかもしれない。彼らにとって家族のように親しい人との別れは当たり前ではないから。
自分自身の無力感、自分の認識の誤り、綺麗すぎる現地の人々。
そんな複雑な感情も相まって、涙が出なかった。ありがとうと笑顔で伝えるしかなかった。
その帰りのバスの中で、ボランティア団体の代表と話した。
若者のきっかけづくりと称し、多くのワークキャンプを企画してきた人。
彼は僕にこう問いかけた。
「ワークキャンプ、どうだった?」
「ここに来て、なにも出来ませんでした。弟があんなに泣いてくれたのに、涙も出ませんでした。」
彼は、ひと呼吸おいて、笑顔でこんなようなことを言った。
「そっか。もしかしたら、流市はこれまでの人生の中で、家庭環境、部活動、そのほか色々なコミュニティで、我慢することに慣れていたのかもしれない。でも、これから、大学に入ったら、少しでもいいから、自分の殻を破ってみて。いや、勝手に自分の殻がピキピキと音を立てて、破れる瞬間に出くわすかもしれない。その瞬間を楽しみにしてて。まだまだこれからだよ。」
「。。。はい」
作った自分の外側を認められることはあっても、自分の中身を見てもらえたこと、そこに期待してもらったことは初めてだったように感じた。嬉しいような、苦しいような不思議な気持ちだった。
この「殻を破れ」という観は自分の中で大切にしたいなと思った。
そして、大学生活。
上智大学に入って、アイセックに出会って、Via Careerに出会って、PLEXに出会って、エンカレに出会って、そして、探究学舎に出会って。
色々な失敗をした。
団体の選挙に落ちた時、初めて決算を作る時、インターンが解散する時、採用に落ちた時。
自分の無力さを味わったことは何度もあった。
けど、その度に誰かが支えてくれた。
誰かがそこまでの努力を見ていてくれた。
誰かが次のチャンスを準備してくれた。
そして、もうちょっと出来るかなと思えるようになっていった。
本当に人の出会いに恵まれていた。
「弱さを見せず、周りの手も借りず、己の力のみで障壁を打ち破り、目標を達成すること。」
今は、それだけが「強さ」だとは思わない。
自分の外側、自分の殻は、高校の時に比べて、弱くなったかもしれない。
でも、内側の部分、自分の中身としっかりと向き合っていける強さを持ち始めている。実際はどうかはわからないけど、そうであったらいいなと思う。
殻を破ろうとしてみた4年間、気づいたことは、
・殻の外で待ってくれている人々の存在
・今の自分よりももっと出来るかもという自信
だったんじゃないかな。
昔の「恵まれていない」という悲劇的な観は、自分が作りだしたもので、
今の「恵まれている」という観も、きっと自分が作り出したもの。
どちらの観も、その時の自分にとっては必要なものだった。そこに優劣はない。そして、この感情の振れ幅が人生の豊かさに繋がっていると信じている。だから、全部、あってよかったし、どんな自分もあっていい。
まあ、でも、今の自分の方がシンプルに好きだよなって自分が思えている。自分らしいよねと。
世界はきっと自分の捉え方次第なのだ。 よく知らんけど。
だからこそ、「これがいい。」と思える自分に出会えるように生きたい。
そして、より多くの人に、「思ってたより世界って面白い所らしいよ」「思ってたより人の可能性って凄いらしいよ」「だから君も楽しんで生きて!」っていう観を感じてもらえたらと思う。
改めて、
2022年3月28日、上智大学を卒業しました。
充実した良い4年間でした。
しょうもない話から、重めな話まで。
長くなりましたが、ここまで読んで下さって、ありがとうございます。
これからも、笑顔で、自分らしく、幸せに生きていこうと思います。
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