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ライブ。

偶然にも、今日、やりたいことが出来ました。



今日、とあるアーティストのライブに行きました。

今年に入って聞き始めたYoutubeを中心に活動しているアーティストです。

ずっと真夜中でいいのに。(ずっとまよなかでいいのに、英語ZUTOMAYO)は、ボーカルのACAねを中心に結成された日本音楽ユニット。通称は「ずとまよ」。
その評価、各メディア再生数とは裏腹に、メディアへの露出はほぼ文字だけ、あるいは音声のみとしている。TVへの出演、ライブ映像などはすべて顔を映すことはなく、実際の有観客ライブでも照明等の関係で姿が見えにくくなっている。ただし、覆面や仮面等はしていない。
音楽ユニットではあるがメンバーは流動的であり、名前だけのクレジットでは誰なのか不明な場合もある。演奏中ではメンバーもACAね程ではないが、はっきりと顔姿を映すことは多くない。

wikipediaより

自分はこのアーティストに惹かれています。
人生で初めて、「一人で」ライブに行くくらい。

もともとライブは苦手でした。
姉が好きで大学1.2年の時に、何度か一緒に行ったのですが。。。

ライブ会場は、人が多くて、疲れるのです。
ぶっちゃけ、肝心の音楽が聞き取りづらいですし。

でも、なぜか、今回は自分から行きたいと思いました。
直感にはパッと従うタイプなので、気づいたら、申し込んでいました。



当日。

1人で好きなアーティストのライブに行くという体験したことがないことへのワクワクと本当にライブを楽しめるかなというモヤモヤを抱えつつ、会場のさいたまスーパーアリーナに乗り込む。

開始30分前に中央線の通勤時間のような人混みに揉まれながら、なんとか席に到着。
周りを見渡してみると、男女比はおよそ7:3。
カップルが多く、何組か家族連れもいるようだ。。。



会場は薄暗く、覚えのない電子音の混ざったBGMが流れている。
ときどき、火花が咲くように舞って、その度に会場がどよめく。

日常では感じられない不思議な空間。




ぷつん。
テレビの電源を切ったように、あたりが真っ黒になる。


緑と紫のライトがオーロラみたいにユラユラと漂い始める。
静かになった空間をピアノの音がすっと通り過ぎる。

そして、光と音の中を噛みしめるようにゆっくり、ゆっくりと歩きながら、ボーカルが登場する。
ただ、顔は見えない。

他のメンバーもワラワラと入場する。
鹿やロボットのような変な着ぐるみをつけている人もいる。

その登場の瞬間、会場中から一気に拍手が集まる。

ボーカルの歌声と、バンドの演奏が地面と身体を揺れ動かす。
頭の中まで、響いてくるような音楽。

そして、火がついたように、場の雰囲気が一変する。



曲が終わると、
黒いシルエットのボーカルがぼそぼそとつぶやき始める。

「ずっと真夜中でいいのに。」です。
今日は来てくれてありがとうございます。
みんなに楽しんで欲しい。ので、
体調に気をつけて、
途中退出も自由なので、
なにとぞ、なにとぞ。

先程までの声量からは考えられないほど、糸のように細い声だ。
シルエットをよく見ると、手も足も、折れてしまいそうなくらい細い女性。

チャンネル登録者数211万人。
その知名度からは考えられないほど、弱々しく、儚く見える。
でも、その言葉遣いは雲のように柔らかく、そして、優しく感じる。


そして、こう言った。

好きな魚の曲歌ってもいいですか?

とある歌を歌い始める。

泥まみれでも 信じさせてよ 異なる自分を愛していたいの


彼女たちは多くを語らない。姿さえ見えない。
でも、だからこそ、一つ一つの歌に、一つ一つの言葉に、メッセージを読み解きたくなる魔力がある。


そして、彼女達の作品の中心であるMVを見ると、
「こんな音楽が、こんなアニメが心から好き」という感情が伝わってくるような気さえする。



彼女達はライブ中にこう語った。

ずっと、ずっと。
ここにいると、気づいてほしかった。
「ずっと真夜中でいいのに。」になって、
初めて許してもらえた。
そんな居場所をくれてありがとう。

と。




「許してもらえた。」

この言葉は心に突き刺さる、なにか刃物のような鋭利さを感じる表現だ。

キリスト教に「原罪」という考え方があった気がする。

アダムとイブが神にそむいて禁断の木の実を食べてしまったという人類最初の罪。 すべての人間は、アダムの子孫として、生まれながら罪を負っているとされる。


また、僕の好きな本、「世界は贈与でできている」の中にこんな表現もあった気もする。

僕らは生まれた瞬間は無力だ。そこから親などから贈与を受け取って、生かしてもらってきた。
僕らは多かれ少なかれ贈与を「受け取ってしまった」という一種、罪悪感に似た感覚がある。



これを読んでいるあなたには、この意識はあるだろうか?
生きていることに対する罪悪感のような感情。

個人差はあると思う。キリスト教を信仰していない、別に一人でも生きてきた、意識したことがないと思う人もいるだろう。



私自身はこの感覚を少し理解できる気がする。

あまり裕福な家庭ではなかった。
才能があるわけでもなかった。
ずっと頑張らないといけないと思っていた。
親や周りの期待に応えないといけないと。
でも応えられないこともあった。
その感覚。

周りの話についていけなくて、孤独感を感じた時もある。
大勢で居ても、場に馴染めないような感覚。
自分を1人の人間として認めてもらえていないような感覚。

しかし、そんな感覚の中で、「やらなきゃいけないこと」は、自分の意思に関係なく、雨のように降り注いでくる。

我慢しながら、自分を押し殺しながら、それでもみんなに認めてもらうために、そこに存在してもいいと自分が思えるように、努力するような感覚。


子供の頃にはそれを悲劇のように思っていた。






「ずっと真夜中でいいのに。」のライブ。

メンバーは音楽を届ける。

それに対して、観客が行う動作は多くて3つくらい
・手を上げる。
・拍手する。
・ジャンプする。



でも、なぜだろう。


その場の人と、一体になれるような感覚を得ることが出来るのは。

そして、その音楽が自分に向けた歌のように感じるのは。響くのは。



音楽が良いから?
光が芸術的だから?
セットが神秘的だから?
映像が惹きつけるから?
その場にアーティストがいるから?
そこに同じ気持ちの大勢の観客がいるから?



わからない。

が、はっきりと自覚した。
自分は、こんな授業を届けたいんだと。



音楽は人類の叡智と自然の神秘。
光・セット・映像はZoomや教室。
アーティストはメインファシリテーター。
観客は子供とその保護者の方々。

観客は、手を上げたり、拍手したり、ホワイトボードに書いたり。

ここにいることを「許してもらう。」
それは表現として適切ではないかもしれないが、



探究学舎の授業を受けている間は、楽しい。面白い。
どんな行動も認められていて、自分が自分でいられる。
いろいろな人と出会えて、異なる価値観もわかち合える。

自分の出した言葉が、表現が、感情が、授業の場の一部になっていく。



授業を通して、ライブのような一体感を作り出すことは出来ないだろうか。
授業を通して、みんなに「ここにいてもいい」って伝えられないだろうか。


そんな場を作りたいのだ。
そう思った。


だから、探究学舎で働く。
シナリオだろうが、天の声だろうが、そんな場作りをしたい。




たまみさんとこの前、軽井沢で話して、「綺麗なことより、ありのままの姿を見せてね。」と伝えられたが、結局、文章にすると、こんな風にまとまってしまった。
ただ、彼女達のライブを見て、確かに受け取ったなにかがあったのだ。


以上が自己PRです。
(自己PRなのか??自分の姿勢は普段の姿を見て判断してもらえたらと。)
好きなアーティストと自分の目標という書きたいことを書かせてもらって恐縮です。

宜しくお願いします!

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