白を告げる

 俺は昨年、日本人として初めて全米チェス大会を制覇した。気恥ずかしいものだが、盤上のサムライ・マサという二つ名で呼ばれている。
 十数年ぶりに日本に帰って来たのは、日本のプロとの親善試合のためだ。対戦相手は、日本のタイトル戦を総ナメにした若き天才・土浦薫という選手だ。その正確無比な指し筋から「浪速のAI」と呼ばれている

 青春時代をずっとアメリカで過ごしたので、日本の文化には詳しくない。けれども、日本の漫画を読む限り日本には大事な試合に勝った後に「告白」をすることが多いらしい。俺はこの勝負に勝って、告白したいことがある。

 小学生の時、父の仕事の都合で渡米した。転校先の現地校の日本人は俺だけだった。言葉が通じなくて毎日が辛かった。両親は仕事が忙しくて、俺に構う時間があまりなかった。
インターネットが俺の心の支えだった。色々なゲームの揃ったサイトで日本人とチャットで話しながら遊ぶ時間が唯一の楽しみだった。誰かと繋がっていたかった。本名のMasahiroのスペルからaを一つ抜いてMashiroというハンドルネームを使っていた。
 夏休み、そのサイトで初めてチェスをプレイした。学校の教室の片隅にあったチェスに興味を持ったのがきっかけだった。木製の駒と、白と黒の市松模様の盤が俺にはとてもかっこよく見えた。モノポリーとは違って英語が分からなくても遊べるそうだが、先生にルールを聞いても俺の英語力ではきっと理解できないし、誰かに一緒に遊ぼうという勇気も無かった。だから俺は、インターネットでルールを調べてブラウザ上で顔も知らない誰かと対局をした。
 アメリカ西海岸の夜中は日本時間の夕方頃にあたるらしく、日本人プレイヤーとマッチングしやすい。偶然にもKuroという同い年の日本人と出会った。
 大人ばかりのチェス界隈で同年代の子と遊べたことがとても嬉しくて、感想戦をした後にチャットしようと伝えたら快く了承してくれた。Kuroの親戚のお兄さんの家にあったガラス製のチェスの駒がかっこよくてもっと遊びたいと思って始めたけれど、周りにチェスを指してくれる友達はいなかったらしい。

「それな!チェスの駒ってかっこいいよな!」

夜中だというのに、テキストチャットだから声を出す必要なんて無いのに、思わず声が出ていた。俺と同じ理由でチェスを始めたKuroに強い親近感を覚えた。当時の日本ではアメリカほどチェス業界は盛り上がっていなかったようだ。Kuroが住んでいた場所は東北の海沿いの田舎町だったらしいのでなおさらハイカラなものは流行らなかったらしい。意気投合した俺たちはサイトでフレンド登録をして、待ち合わせをして対局をすることにした。俺たちは毎日のようにチェスをして、そのあと雑談をした。
 クロは日本で流行っているアニメや漫画を教えてくれた。クロはアメリカのことに興味津々だった。ハンバーガーが日本の倍以上大きいのはフィクションじゃなくて本当のことだと伝えたらとてもテンションが上がっていた。
 当時はネットリテラシーが厳しくて、どんなに仲良くなってもインターネット上の人に本名を教えてはいけないと両親から厳しく言いつけられていた。Kuroもそうだった。俺たちは「クロ」「真白」と呼び合った。たとえ遠く離れていても、顔も名前も声も知らなくても俺とクロは親友だ。黒と白、最高にチェス友達らしい呼び名。孤独だった毎日も、クロがいるから寂しくなくなった。
親戚のお兄さんに教えてもらってどんどんうまくなるクロと指し続けたくて、インターネットで定跡を研究した。日本時間の夜中、クロが寝ている間もこっそり練習した。チェスはいつしか俺の生き甲斐になっていた。
 楽しい夏休みにも必ず終わりが来る。正直、学校なんて行かずにずっとクロとチェスをしていたかった。でも、クロがきっと真白ならすぐに友達ができると言ってくれた。アメリカでは日本と違って9月に進級する。見えないクロの手に背中を押されて、心機一転、俺は新しいクラスメイトにありったけの勇気を出して話しかけた。

“Let’s play chess.”

カタコトの英語で絞り出したその声は、確かに彼に届いた。俺はその日、初めて現地校のクラスメイトと遊んだ。言葉が通じなくてもボードゲームはできる。
クロは俺にチェス仲間ができたことを自分のことのように喜んでくれた。でも、クロと指しているのが一番楽しかった。待ち合わせをして、深夜や早朝にクロと対局をした。人生で一番キラキラした季節を生きていた。
 クロと俺の実力は伯仲していた。「どっちが先に100勝するかな」なんて言い合った。クロとの関係はいつしかライバルと呼べる物になっていた。テキストボックスに打った「負けないぞ」の5文字には収まりきらないほどの闘志が俺の中にはあった。クロは友達だけど、クロにだけは負けたくないと感じていた。

 そして「その日」は来た。星の綺麗な3月の夜だった。日本はもうすぐ春休みらしい。その日、クロの学校は卒業式の予行演習だけで終わり、昼前には下校したらしく、少し早く対局を始めることが出来た。通算成績は俺の99勝98敗42分だった。勝てば通算100勝だ。俺はとてもワクワクしていた。
 その日の対局は俺の劣勢だった。クイーンもルークも次々と討ち取られた。このままでは負ける。残りの持ち時間をすべて使い切るくらいに長考した。考えても活路は見いだせなくて、このままリザイン、すなわち降参を宣言するしかないのだろうかとも思った。でも、諦めたくなくて盤面を注視して起死回生の一手を考え続けた。
 突然クロの回線が切れた。「対戦相手が通信を切断しました。あなたの勝ちです」と画面いっぱいに表示された。記念すべき100勝目が不完全燃焼で終わってしまったことが腹立たしかった。

 日本で未曾有の大災害が起こったということを翌日知った。全身の血の気が引いた。いくらメッセージを送っても、クロからの返信はなかった。クロ、頼むから生きていて。毎日神様にお願いした。
 最後の棋譜を俯瞰すると、どう見ても俺のキングは死んでいた。本当は負けていた勝負なのに、無機質なプログラムが「100勝」の文字を忌々しく表示した。

 クロが生きていると信じたかった。でも、俺はクロのことを何も知らない。本当の名前も、顔も知らない。クロの生死を確かめるすべを持たない俺は前にも後ろにも進めない。
 チェスのステールメイトみたいだ。チェックをかけられていない状態のキングが八方塞がりでどこにも動けなくなってしまう状態。ルール上は引き分けとなる。「どっちが先に100勝するかな」と密かな闘志を胸に秘めながらも笑い合った日々はもう戻らない。俺がみっともなく悪あがきしたあの対局も、通算100勝を懸けた大勝負も、永遠に決着はつかないままだ。クロのアカウントの最終ログインはずっと「その日」のままだった。

 両親はふさぎ込んでいた俺を全米チェス協会主催の集まりに連れ出した。そこにあったのは、学校にある木製の駒じゃなくてガラス製の駒だった。クロが惚れ込んだ透明な騎士や王に俺は思わず手を伸ばした。チェスプレイヤーとしての性には抗えなかった。見知らぬ大人と対局をして、クロもこんな感じで親戚のお兄さんに指導対局をしてもらっていたのかなと考えると涙が止まらなかった。
 もし俺がチェスをやめたらクロとの思い出も消えてしまうような気がした。チェスが俺とクロを繋げてくれたのだから。クロが教えてくれた日本のアニメや漫画なら、同じ夢を追いかけていれば必ずいつか運命の再会ができるものだ。俺はその未来に賭けた。かすかな希望を胸に俺はもう一度立ち上がった。
 数年後俺はプロになった。ちょうどその頃、例のサイトがサービスを終了した。最後の日までずっとクロは現れなかった。クロと勝負する夢を何度も見た。棋譜は夢の中でさえクリアな映像として脳裏に浮かぶのに、クロの顔だけが靄がかかって見えないままだった。サイトにアクセスできなくなった日、数年ぶりに泣いた。
 日本のプロ情報はよくチェックしていた。黒沼、黒沢、のような名前の人には特に注目したけれども年齢が違った。クロの由来が本名由来とは限らない。フィクションなら棋譜を見ればクロだと分かるのだろうけれど、そんな奇跡は起こらなかった。分かるわけがない。
 強くなれば、日本にも俺の名前は届くだろうか。クロ以外の誰にも負けるものか。強い願いと誓いを胸に戦い続けた。そして、昨年ついに全米大会で優勝した。
 今年の初め頃、日本の若き天才の噂を耳にした。俺と同い年にして、鮮烈なプロデビューを飾り次々と大会を優勝した。もはや国内では無敵といって差し支えはないという。しばらく日本のチェスプレイヤーをチェックしていなかったことを思い出し、日本の王者・土浦薫のインタビュー記事を読んだ。

「ずばり、ライバルといえる存在はいますか?」
「いますよ。小学生の頃、インターネットでチェスをしていたんです。そこで真白という子と指していました。ただ、震災でそれどころではなくなってしまって真白とはそれっきりです。岩手から大阪の親戚の家に避難させてもらっていたので、パソコンなんて贅沢なものはねだれませんでしたし。近所の公民館のチェス教室に混ぜてもらって、生活が落ち着いてからは親に頼み込んで本格的に習わせてもらったんですけど、いつの間にかサイトはサービス終了してしまって。プロになったのは続けていればいつか真白に会えるかなって期待もあったりして……。実は真白には負け越したままなんですよ。最後の対局もいいところで終わってしまいましたし。真白は一生ライバルです」

クロ、Kuro……Kaoru、薫。アナグラムしたあとに、俺と同じようにAを抜いたハンドルネーム。ずっと探していたクロを見つけた。クロは俺のことを覚えていてくれていた。俺はすぐに全米チェス協会経由で土浦薫と親善試合がしたいと連絡した。

 今日、クロと勝負するために10年間チェスを続けてきた。あの日の勝負は俺の負けだから、戦績は99勝99敗。勝った方が、100勝目の大一番。本当の100勝目の後に、俺は自分が真白だと告白する。

 全神経を集中して、先の手を読み続けた。戦略が張り巡らされた四角い世界で32の駒が激闘を繰り広げた。幼い俺たちを虜にした本物の駒を使ってのクロとの真剣勝負。ああ、楽しい。今まで何千試合と戦ってきたけれど、クロとの勝負が一番楽しい。勝負は麻薬だ。通常の麻薬の何百倍にも濃縮されたかのような刺激が俺の脳を支配する。限界のその向こうの扉を何枚も何枚も開いて、勝ち筋を探る。

 楽しい時間は永遠じゃない。クロの軍が戦局を支配し、俺のキングは悲鳴を上げている。馬をかたどったクロのナイトの駒がニヤリと笑った気がした。数手後にはチェックメイトされることが一目瞭然だった。

もはやこれまでか。俺は口を開いた。本当は勝って告げるつもりだった。

「クロ、俺は今日君と勝負するために10年間チェスを続けてきた」

盤上を見つめていたまっすぐな瞳が俺に向いた。クロは心底驚いた表情をしていた。

「俺が真白です。あの日、言うべきだった言葉も今から言うよ」

俺は自らのキングを潔く横に倒した。白星とともに告げるはずだった俺の名前は10年前と今日の2本分の白旗とともに告げることになった。

「リザイン。俺の負けだ。100勝おめでとう」

色々な感情が入り混じって涙が止まらなかった。こんな格好悪い告白をするつもりじゃなかったのに。それでも、こんなに胸躍る試合は初めてで、クロが生きていてくれて安心して、現実世界で会えたことが嬉しかった。だからこそ、負けて悔しかった。クロ以外には絶対に負けたくないという思いで戦ってきたのに、他の誰に負けるよりクロに負けるのが一番悔しかった。
 泣いている俺とは対照的に、「やっぱり、真白との勝負が一番楽しい」と、クロが無邪気に笑って俺に握手を求める。初めて触れるはずのクロの手から懐かしさを感じた。土浦薫、ずっと探し続けた親友。そして生涯のライバル。初めてリアルで聞いたその芯の通った声に「リザイン」と言わせたくなった。

ここから先は言葉なんていらない。俺達が200勝目をめぐって世界大会の決勝で激突するのはまた別の話。

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