君じゃない誰かに微笑みを

「おはよう。私、諦めないから」
 朝登校して一番に元カレのアキラに挨拶をする。一限の必修はアキラと同じ授業だ。
「もう彼女面すんなよ、お前とは終わったから」
 アキラは冷たい目を私に向けた。

 アキラの浮気相手は同じ学部の菱川蘭だった。体育会バスケ部の蘭は背が高く大人びていて、私とは正反対の人間だった。
 一昨日、蘭とキスしている現場を目撃したときはあまりの衝撃に、よくこんな狭いコミュニティで二股できるなとか、誠実に見える人ほど浮気するって本当なんだなとか、そういえば最近一緒にいる時間が減ったなとか、どこか他人事だった。

 そのことを問い詰めるか、私が我慢して波風を立てないか迷った。二人でおそろいのマグカップを使ってホットココアを飲んでいる時間が幸せで、見間違いだと信じたかった。
 でも、アキラが昨日の夜わずか1時間で私の部屋を出てどこか別のところに行こうとしたところでつい言ってしまった。
「蘭のところに行くんでしょ?」
 振り返ったアキラは取り繕うことすらしなかった。
「そうだよ。だからお前とはもう終わり」
 そういうなり半同棲中の部屋の荷物をまとめて出ていこうとするアキラ。おそろいのもの、あげたものは全部置いて。マグカップを置くことも忘れて、アキラの腕を掴んだ。
「待ってよ、私、何かした?」
「気安く触るなよ。もう俺は蘭の彼氏なんだよ」
 アキラに手を振り払われた拍子にマグカップを落としてしまった。粉々になったそれは二度と元に戻らない。

 嘘を決してつかない人のはずだった。兄弟の話題になった時、元々双子だったけど胎内でもう1人を吸収して生まれてきたと少し話しづらいようなことも話してくれた。
 別人のような冷たい目で私を見たアキラ。あの瞳は何度か見たことがある気がする。望みなんてないと分かっているけれども、それでも嫌いになれない。

 2限も本当は授業があったけれども、ショックが強すぎて辛くて、サボって家に帰って来てしまった。アキラと長い時間を過ごしたこの部屋で、私は見覚えのない日記帳を見つけた。その時、アキラが合鍵で入って来た。

「忘れ物した、それ返して」
「返したら、またどっか行っちゃうんでしょ。嫌だよ、悪いところあったら直すから、捨てないでよ」
私はアキラに縋りつく。今度は振り払われなかった。だから思い切り抱き着いた。
「気づかないうちに嫌なことしてたらごめんなさい。何でも直すから、蘭みたいにかっこいい性格になるし、蘭の顔が好きなら整形するから」
アキラは私のことを乱暴には扱わなかった。私が泣きやむまで待って、絞り出すように答えた。
「ごめんね、俺クズだから浮気しちゃう病気なんだ。冬香は何も悪くないけど、俺の病気は治らないから」
昨日とはうってかわって泣きそうな目でアキラは言った。
「それでもいいから、嫌なところあったら治すからやり直そうよ、私にはアキラしかいないの。2番目でもいいから!」
「ダメだよ、そんな簡単に整形するとか2番目でもいいとか言ったりしたらさ。ちゃんと自分を大切にしなよ。俺が冬香を大切にしてあげられなくてごめんね、さよなら」

***

 男の世界は弱肉強食だ。縄張り争いに負けた弱者には死あるのみ。
「なあ、もう未練はないか?」
 俺がキラと呼んでいる人格が俺に問いかける。
「あるに決まってるだろ。ずっと冬香と一緒にいたかった」
「そりゃ、悪いことしたな。でも、恨むなよ」
「嫌だね。恨んでやる。呪ってやる。冬香を傷つけやがって」
「でも、こうでもしなきゃお前あの女と別れられなかったろ、なあ、アキ」
 キラと俺はアキラという1つの体を共有する2つの魂。キラは俺をアキと呼んでいる。俺は生まれる前双子だったけれど、片方が片方を吸収して1人の体として生まれてきた。しかし、魂は2人分の魂が残ってしまったらしい。
双子というだけあってどちらも恋には一途だという点は似ている。しかし、好みのタイプは正反対。俺は可愛い冬香が好きで、キラは大人っぽい蘭が好き。俺はもう何年も冬香と付き合っているのに、キラが蘭と恋仲になってしまった。
 実情はどうあれ、双方の恋人から見れば二股は不誠実な行為だ。別れろと詰り合い、最終的にお互いが邪魔であることに気が付いてしまった。12時間ずつ1日を分け合う毎日が煩わしかった。もう共存できない。古典的な手段だが、俺たちは決闘を選んだ。
 提案したのはキラの方からだった。負けた方が消える決闘。激闘を繰り広げた末に俺は敗者となった。身辺整理のためにとキラは1日1時間を1か月の猶予をくれた。
 体の占有時間が短くなるにつれて、俺の心も記憶も少しずつキラと同化していった。思い出のピースを足しても、そばから過去が消えていった。
「呪いやがったら殺すぞ?」
「呪わないけど、約束は守れよ。蘭と別れたら俺にこの体返せよ」
「元々俺の体だ。それと、蘭と俺が別れるわけねえだろ、バーカ。一生消えてろカス」
 どちらの体かなんて水掛け論だ。蘭は俺のようななよなよした男は嫌いで、冬香もきっとキラのような荒っぽい男は嫌いだろう。
 中学生の時、奇跡的に同じ女の子を好きになり付き合っていた時はうまくいっていたのに、やっぱり1つの体で違う女の子を好きになると不都合が生じる。

 最後の日に出来る限り冬香を傷つけずに別れるつもりだったのに、キラが蘭とキスしている場面を最後の最後で冬香に見られてしまったのは不幸な事故だった。
 昨日、キラがいつまでも煮え切らない俺に変わって冬香を傷つけてしまったけれど、俺を恨んでくれた方が冬香は次の恋に行きやすいのかなとか思っていたがそうもいかない。二重人格のことから余命のことまですべてを書いた日記を忘れてきてしまったのだ。

 幸いキラが合鍵を返すのを忘れていたので、冬香が留守の隙に回収しよう。そう思って冬香の家に来たのに、2限は授業に出ているはずの冬香と鉢合わせてしまった。机の上にはテープで補修されたマグカップ。冬香の指にはたくさんの切り傷。
「大切にされなくたっていい! アキラといられたらそれでいい!」
本当は別れたくないのに、別れないといけない。必死に別れの言葉を紡いだけれど、そんな痛々しい姿で縋りつかれたら我慢できなかった。
「俺だって、ずっと冬香といたかった!でも、もう無理なんだよ!」
 俺の目から涙が零れる。泣き喚く俺に驚いた冬香が俺を抱きしめた。俺が悪いのに。うまく話せない俺に何かを察したのか、冬香は俺の日記を読んだ。そして、この荒唐無稽な話を信じて大泣きし始めた。
 俺たちはお互いの手を強く握りしめて、好きだと叫んだ。この手を永遠に離したくないのに、もう少しで俺は消えてしまう。
「冬香、泣かないで」
「アキラだって泣いてるじゃない」
 最期に冬香の笑顔が見たいのに、俺もうまく笑えない。もっと好きだと伝えたかった。その笑顔を見ていたかった。結婚したかった。俺が願ったことと同じ願いを口にしながら冬香が泣いている。
「ねえ、冬香。俺がいなくなっても笑って生きてね」
「無理。消えないで」
「今は泣いてもいいから、いつかもう1度笑ってね。俺、冬香の笑顔がずっと大好きだったから。約束だよ」
 ああ、失敗したな。結局最期に冬香を縛り付けるようなことを言ってしまった。この後、キラが冬香を傷つけませんように。どうか、俺のことを忘れて冬香が笑ってくれますように。冬香は俺のすべてでした。

***

 アキラがいなくなって1か月。最期の瞬間に笑えなかった私は無理矢理笑顔を作って登校する。そして今日も好きでもない男を口説く。
「おはよう。私、諦めないから」
アキラと同じ顔をしたその男はどこか申し訳なさそうに私を見たあと目を逸らす。
「俺に媚びたってアキは返さないし、俺はお前のこと好きにならねえからな?」
「今はそうかもしれないけど、10年、20年後はどうなるか分からないでしょ?」
「俺は、蘭みたいな強い女が好きなんだよ」
 この人に認めてもらえるように、私は強くなる。そうしたらいつか、貴方が何度も手を繋いだその体に帰ってきてくれるかもしれないと信じて。

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