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「がんばろう、ニッポン!」とは?

「がんばろう、ニッポン!」というスローガン、コロナ以降、よく見かけるようになった。いや、コロナ以前も、相変わらずそうだった。「ニッポン!」の部分を、「〇〇町!」とか「〇〇中学校!」とかに変えれば、もうこれは、日本各地で毎日のように見かける言葉だろう。

なにをがんばるの?私はいつも不思議に思っている。誰が、何において、何を目指して、何をがんばるの?

「いやそれは、別に、具体的な何かを指してがんばろうって言ってるんじゃなくて、がんばる気持ちのことを言ってるだけだから。」とも言える。

それでもなお知りたい。いったい全体、なぜそう「がんばらなくてはならない」のか。

ニューヨークの有名な言葉にExcelsiorというのがある。常に向上を目指そう、といった意味らしい。向上、研鑽、進化、進歩、それらの価値観自体にはなんの違和感も、拒否感も覚えない。向上は、人においても、会社においてもほぼ何においても、良い側面がたくさんある。技術の進歩のおかげで、人類の生活はかなり快適になり、可処分時間も増えた。こういった意味で、向上などの「より上を目指していく、改善していく価値観」は基本的には良いものだと思える。

日本人はがんばるのが好きだ。それも、個人単位ではなく、集団が、もっと言うと社会全体で一致してがんばるのが好きだ。そのような一体感を感じることに、日本人の集団意識がくすぐられるのだろうか。「大変なのは私だけじゃない。もがいているのは私だけじゃない。みんなそうなんだ。だから、みんなで一緒になって、がんばろう」こういう論調で、広く人々に、一致団結と、言ってしまえばがむしゃらな努力を要求する。際たる例が、戦時統制だろうか。私は戦後何十年も経ってから生まれた日本人で、当時のことは人聞きにしか知らないのでおいそれと言えたものではないが、この「みんなでがんばろう」効果は、1945年前の、そして高度経済成長期の日本に絶大な影響をもたらしただろう。戦時中も復興期も、24時間気を抜かずがんばり続けた日本人である。

「いやいや、そう頑なに言わなくても、がんばるっていいことじゃない。それの何が問題なの?」そうなのだけど、少なくとも今私が生きている日本の「がんばる」雰囲気には、違和感を覚える。それは、がんばる目的の不在と個人の意識の不在を感じるからだ。

百歩譲って、復興期は今より良かった。目的それ自体が正しいかどうかはさておき、がんばる目的がそれなりにあったからだ。「荒れ果てた国土を復興し、食糧を確保し、主力産業を育て、国民の所得を増やし、生活を(物理的に)豊かにする」何もなかったところに、何かを、それも欧米諸国がすでに具体的に示してくれているものを、「がんばって」築き上げる。はっきり言えば、ただそれだけで良かったのである。もちろんそこでは、後進ながらも脅威のスピードで急成長を遂げることができた日本人の勤勉性や創意工夫、技術革新などがあったことは言うまでもなく、それらの独自性自体を否定するつもりも全くないが。

はい、復興しました。国民は豊かになりました。その証拠に、GDPは世界2位にまで向上しました。おしまい。とはいかない。いかないので、現代の日本はいまだにがむしゃらに「がんばって」、もがいているように思える。今や、目的とするところの物理的繁栄は達成してしまったし、それ自体の意義も、同様に支持してきた資本主義や民主主義の動揺と相まって、薄れてしまった。はてさて、今度は何を目指して、何を理想として「がんばれば」いいの?日本人は、いや、今回ばかりは世界中の人が、そう思っているかもしれない。もう今までの価値観では、やっていけないんじゃないか?そういうぼんやりとした疑惑が広がり、何年も前から地球のあちこちで、いわゆる「平穏」とは言い難い動きが起きている。

なんでもかんでも、みんなでがんばればいいもんじゃない。そもそもみんなでがんばること自体が、ナンセンスと言えるのではないだろうか?これは別に、革命を起こせ!とか、愛国心ってのは嘘だ!とか、そういうことを言ってるのではないし、何ならイデオロギーの話でもなんでもない。もっとシンプルな考えだ。人間は皆違って当たり前です、ということ。それは、1人として同じ顔、姿、性格、考え、生まれの人がいないのを見ればわかるように、明白なことだ。だから、人生の捉え方も、そこにおける目的・目標の置き方も、十人十色で然るべき、というか、そうならない方がむしろ不思議である。なので、人間を一緒くたにして「みんなでがんばろう」なんてまるで新歓合宿で新入生を無理やりにでもクラブに加入させるようなやり方を、いつまでも続けていいんだろうか?と思う。そういう、無言の圧というか半ば強制的な風潮は、やがて個人の意識を希薄化させかねない。無思考・無批判につながりかねない。そうなれば、国が希求しているような「創発的な人材」をますます埋もれさせてしまいかねない。そもそも、個人の力は国のためのものでも何でもないのですが。

そういうわけで、町やお店で「がんばろう、ニッポン!」という掛け声を見かけると、真剣に憂いてしまう。ここまで書いてくると、国や、国家という概念のことを暗に批判しているように思えるけれども、実際のところ、私は日本のことが好きだ。なので、今までとは違う意識、やり方、価値観で、日本人それぞれが、生きたいようにのびのびと生きられる社会になってほしいと思っている。まあこのような考えも、「がんばろう、ニッポン!」に通じてしまう可能性はあるが。とまあ、そんなことを、取り留めなく考えていた。





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