私にとってダンスとはなんだったか
悲しくあってもいい。
悲しさを表現して、外へ表出させる。
涙を流すだけでは伝わらないものを、表情や涙ももちろん含まれるが、それを身体的に表現することが許される場だった。
それは心のこもった、メッセージ性のある踊りになる。
ある感情を表出させる手段として、私のもとにやってきてくれたのが、「踊り」「舞」「演じる」であった。
それで何が癒やされたか?
それで私の心の穴は埋まったのか、いや埋まらないだろう。
ただ、踊ることによってでしか、心に文字通りぽっかりと空いてしまった虚しい空洞を撫でるようにして、自分で自分に優しさを与えることができなかったのだと思う。
自分の心の空洞をなぞってあげることで、その傷のような触れてはいけない青黒く重いものを心の内側から身体の外に発散させることで、なんとかバランスを保っていたのかもしれない。
人と話す、や、学生生活を送る、や、毎日の心のサバイバルを。
言葉で説明しなくても、踊りを見てもらうことで私の悲しみを知ってもらえる。そんな気がした。
私が泣くことで、私の悲しみが伝わる。
私が歌うことで、私の悲しみが伝わる。
私が抱きしめることで、私の悲しみが伝わる。
踊りを見た人、泣いてる姿を見た人、歌を聞いた人、抱きしめられた人が、この悲しみを受け止めてくれる心の器を持っていたら、私はきっと救われるのだと思う。
その可能性に賭けて、私は踊り、泣き、歌い、抱きしめるのだと思う。
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