梅の花が麗しく咲いた 黒田博樹氏の野球殿堂入り
「耐雪梅花麗(雪に耐えて梅花麗し)」
野球殿堂入りが決まった元プロ野球選手、黒田博樹氏(48)が座右の銘にしていた言葉である。
意味は「梅花は、雪の冷たさに耐えてはじめて美しく咲く」。
彼は大リーグのニューヨーク・ヤンキースに所属していた2012年(平成24年)、チームメートの前でこの言葉を紹介した。
当時チームでは、それぞれの選手が大切にしている言葉を披露するというミーティングをしていた。黒田氏がこの言葉を伝え、通訳が英語に直すと、選手から拍手が起きたという。
数々の栄光を手にするスター選手たちも、順風な時期ばかりではない。黒田氏は上宮高時代、控え投手でほとんど出番がなかった。専大から広島カープに入った直後は、2軍でも打ち込まれる試合が多かった。そんな…雪が降る寒い冬のような時期を過ごして、大リーグでも活躍する名投手になった。麗しい梅花を咲かせたわけである。
「雪に耐えて梅花麗し」は、西郷隆盛が、甥(妹の長男)市来政直のアメリカ留学に際して贈った漢詩の一節である。
書籍「漢詩から読み解く 西郷隆盛のこころ」(諏訪原研=大修館書店)で全文を見てみたい。
詩の意味は次のように書かれている。
漢詩の後に解説が書かれている。これも紹介したい。
ここにも黒田氏の名前が登場していた。もはや、この詩の現代の語り部といっていいだろう。
なお、西郷がこの詩を甥に贈ったのは「明治五年」と書かれている。日本に野球が伝わったとされる年である。
日本への野球伝来には、いくつか説があるのだが、その中で有力と言われる「明治五年説」で、アメリカ人教師のホーレス・ウィルソンが、1872年(明治5年)に第一大学区第一番中学で英語や数学を教えるかたわら、生徒に野球を教えた。これが、日本野球の始まりといわれている。
ホーレス・ウィルソンも2003年(平成15年)に新世紀特別表彰として野球殿堂入りを果たしている。
黒田氏の取材は、数えるほどしかしていない。最初は逆指名会見だった。1996年(平成8年)11月11日の午前11時…見事なまでに「1」が並ぶ日時に、神奈川県伊勢原市の大学施設で、黒田氏は広島カープへの入団を表明した。当時のドラフト制度では、上位2選手に限り、希望球団に入団できた。
残念ながら紙面での扱いは小さく、同じ日の午後5時から、同じ広島を逆指名した1位の沢崎俊和投手(青学大)と合わせて短い記事しか載らなかった。
しかし、彼がプロとして第一歩を踏み出した瞬間に立ち会っていたことは間違いない。
次に記憶に鮮明なのは2004年(平成16年)のアテネ五輪である。初めてオールプロで臨む五輪で、その後の「侍ジャパン」の原型といっていい。ここに黒田氏がいた。
黒田氏は、その2年前に他界した母靖子さん(享年60)の写真を持ってアテネ入りしていた。ピッチャー陣のキャプテンとなり、普段の先発とは異なるリリーフとして奮闘した。最後の3位決定戦など3試合で計9イニングを投げ、3安打無失点13奪三振と結果を出した。
オランダ戦が忘れられない。先発の岩隈久志投手が2回途中3失点で降板し、石井弘寿投手を経て、1点ビハインドの4回からマウンドに上がり、9回まで5イニングを投げた。
予定外のロングリリーフだったが、黒田氏の投球は気迫にあふれていた。球場のスピードガンに160㌔、164㌔と、信じられない数字が表示された。スライダーでも150㌔が出ていたので、おそらく計測ミスなのだと思う。しかし、スタンドの記者からは「黒田の気迫がスピードガンにも通じたんじゃないか」という声が出ていた。そんな投球だった。
カープ、ドジャース、ヤンキース。どのユニホームでも輝いていたが、私はアテネ五輪のピッチングが最も鮮明な記憶として残っている。
2つのギネス記録を持つ男も
黒田氏とともに野球殿堂入りが決まった谷繁元信氏(52)は、プロ野球最多記録に輝く3021試合に出場している。
さらに、27年連続ホームランは「プロ野球選手による本塁打最多連続シーズン数」として、捕手として出場した2963試合は「プロリーグでキャッチャーとして最も多くの試合に出場」として、ともにギネス世界記録に認定されている。
一朝一夕にはできない記録ばかりである。彼もまた、雪深く寒い冬を乗りこえ、麗しい梅花を咲かせた1人といえよう。
1月。まだ寒い日が続いているが、いつかは春がくる。そして梅の花が咲く。その日を楽しみに毎日を過ごしていきたい。