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四十不惑とは、諦観を持つこと

先日38歳の誕生日を迎えた。己なんかが誰かに祝ってもらうなどおこがましいと思っていたにも関わらず、家族や数人の友人が誕生日お祝いメッセージをくれて、嬉しかった。一方で、その友人たちにお祝いのメッセージすら遅れていない自身に申し訳なく思っていた。

一方で、38年前に曽根田家の待望の末っ子として生を受けているにも関わらず、日々をもったいない感じで過ごしてしてまっている現況に、家族に対する申し訳なさのようなものが芽生えてきた。かつての”独善的である自身”というものをようやく捉えることができ、人のための意味のある活動につなげていこうという意思が芽生えてきている。

当面のテーマは
・自身の強みと才能に焦点を当てること
・今日1mmだけの進捗を感じるアクションを取ること(なんでもいい、己がやったと思えるかどうか)

先日の一念発起のバンジー以来、声をかけてくれる人が増えて本当にありがたいと思っています。これまでの友人や偉大な先輩方、はたまたこれまで全く知らなかった方からも、友人経由で「会ってみたいんだ」などと言って頂いている。人との出会いは何かを先に進めるし、面白いもんだなと。

こうしてお会いできたのは大分市内中心部で会社経営をされている、初老の方Mさんだった。友人が働く「七村酒店」の常連さんで、投資に詳しいスーパーな方。
ちなみに、七村酒店は大分市中心部にて、大分県産の食材やお酒にこだわって飲食展開をする居酒屋で、大分の豊かな恵みを味わってほしい、という想いで各地域の生産者と繋がり店舗経営を行っている。オーナーの友人はテレビ番組にも出るし、大分の産品の販売もする、スーパーな同級生だ。

件のMさんは、ピケティの話を引き合いに出しながら資産形成の近道の方法論について説いてくれ始めた。おそらくかなり勉強もされていて、長い経験知と視野に基づく投資判断を行っているはずにも関わらず「私なんてちょちょいっと株とかやってるだけだよ」なんて、お酒をぐいっと飲みながらおっしゃっていた。しかし、その中で僕に伝えたかったメッセージとしては「昔の偉い人が言ったように、十有五にして~なんて言葉があるだろう?私も人生は正にその通りだなと思うんだよ。君は30代後半、四十不惑がまもなくだ。惑わないというのは、一種の諦観であって、諦めることなんだよ。諦めるというと、なんだか寂しい感じがするだろうけれど、諦観を持つという事はある意味自身の生きる方向性が定まること、これ以外はないんだという”モノ”を定めること、なんよ。諦観をもちなさい」

ここ最近、いろんな人に相談お話をさせて頂くなかで、人生の先輩方にやはり同様な言葉を投げかけて頂ける。「大きいものを大きいものとして捉えることは大事、でも一歩がもっと大事。一歩を刻むという事は、その一歩以外の整理をつけるということ。そしてその一歩が正しいかなんてことは、踏み出した後にしか分からない。」

僕の一歩はまだ1mm、今日も1mmを前に。

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