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アナログのデジタル化に関する雑談

1. まず突然、料理の話題

たとえば。僕の趣味は料理です。毎日それに取り組みながら、どうにか上達しないものかと試行錯誤しています。基本的なアプローチは、以下の通りです。

まずは、食材の下ごしらえ。定規を使って、食材の厚さを測ります。同様に、キッチンスケールで重量を、塩分計で塩分濃度を、糖度計で糖度を、水分計で含まれる水分量を、それぞれ把握します。専用アプリによって色ごとの面積を計測し、肉の赤身と脂身の比率を算定します。

以上の情報に加え、料理時点における室温と湿度をスプレッドシートに記入すると、料理ごとに、それら食材をどのように調理するべきなのか、手続書が掲示されます。食材の状況を変数とする調理モデルが予め用意されている、ということです。もちろん、僕が用意したものです。

手続書の適正寸法どおりに、定規をあてながら食材を切り分けます。鉄・ステンレス・アルミのうち指定されたフライパンに、適切な油を分量通りにひきます。油はもちろん、原料とメーカーを指示されます。目盛りにより調整した火力が油を適温に熱したことを温度計が示したら、タイマーで時間を厳密に管理しながら食材に火を入れていきます。

出来上がったら、それを食べながら、味のレポートを書きます。とくに「あるべき味」との差分についてよく検証します。それを踏まえて、差分に影響していそうな変数を想像し、調理モデルを調整します。完成品の油分が多くなるように油にかかる係数を増加させようか、とか、塩加減が少なくなるように塩の係数を低下させようか、といった具合です。そしてまた、同じ食材を使って、調整後の調理モデルに従い、料理をします。再度、出来上がったものを食べ、味のレポートを書き、調理モデルを調整し、もう一度料理。同じ日に僕は、一人前分量を4回調理して、モデルの改善につとめます。それぞれを1/4ずつ食べて、あとは冷凍。翌日以降に徐々に消費することになります。

さて、この料理のプロセスにおいて、大切なことが2つあります。ひとつは、調理モデルの存在です。「料理上手になる」という目標の具体的な努力対象は、このモデルです。これを改善させることがすなわち料理上手になるという意味だ、と僕は定義しています。モデルのチューニング論は興味深い論点がいくつかあるのですが、それらは既に語り尽くされていることであろうから、今回は深追いしません。本雑談のテーマは大切なことの2つめ、「計測」です。

調理モデルという単純な方程式における変数Xは、食材です(調理時点の室温と湿度も若干は影響しますが)。そのXが確定しなければ、Yである調理方法が決まりません。ある食材の状態の変化を調理方法に影響させるのは、それらの数値化が前提です。物体として存在する食材を、調理モデルに投入するため数値化するプロセスが、計測です。計測前と後では、全くの別世界。計測をしなければ、僕は、調理モデルを使うことができないし、そもそも調理モデルを確立することもできず、目分量を繰り返し経験則の逓増による技術向上に挑むしかなかったのです。

2. 物体とデータの境界

物体として存在するモノを、数値・テキスト・画像・動画など様々な形式によってデータ化し、機械に取り込むと、その後、様々な場面で利用できます。それなしでは物体は、その時点、その場所に固着します。個人の思考、その人物自体も同様ですね。データ化することで、影響範囲が時間的にも距離的にも拡張されます。物体とデータの境界に、価値の断絶がある、といった感覚です。つまりこの接線を乗り越える「データ化」という活動にはそれなりの価値があるのですが、しかし、とても面倒でもあります。

ネットバンクを提供していない金融機関の入出金明細は、通帳を見ながらパソコンへ打ち込みます。糖度や塩分濃度、水分量が食材に記載されていなければ、計測器によって測ります。僕の思考を、複数の人々に将来にわたり知ってもらうには、こうして文章化することになります。

どんなにデータ化が有益であると主張したところで、そこから得られる利益がデータ化の手間・コスト・面倒を下回れば、合理性がありません。データ化の手法の議論なしにデータ化以後の世界の素晴らしさを語っても、結局は虚しさだけが残ります。

大切なことは、境界・接線の存在を意識することです。この感覚が無ければ、次の論点である、境界を乗り越えるという議論の前提として不十分です。

3. 境界をどう乗り越えるか

物体とデータには境界があります。それを乗り越えるのは手間であり、面倒なことです。この問題について、どう考えるのか。いくつかのアプローチを指摘します。結局は、減らすか、効率化するか、そのどちらかです。

物体をデータ化するのは、一度だけ。一度データ化された後工程で、再度それをデータ化するのは、愚かな行為です。A社パソコン上の請求データから紙の請求書をプリントアウトして、それをB社へ郵送し、B社の担当者が請求書を見ながらパソコンへその情報を打ち込むという行為。クレジットカードで支払い、領収書を受領し、経費精算時に、領収書を見ながら金額等を打ち込む行為。僕の書いたことについてインタビューがしたいといって、再度僕に同じことを説明させる行為。「物体→データ」という流れに逆行する「データ→物体」という流れを許容しないようにします。データ化のために消費したコストや労力を大切にして、そのデータを将来にわたり利用しようね、という感覚です。

物体を減らす。データにしか価値を持たない物体について、そもそも保有しないという選択肢があれば、それを積極的に選択します。世の中には、紙通帳だけで入出金情報を提供する金融機関以外にも、ネットバンクを利用できる金融機関が数多く存在します。そもそも通帳へ記帳される数値は金融機関の段階ではデータだったわけですから、前述の一度だけ、というルールにも反しています。もう少し抽象的にいうと、同じ価値を提供するのであれば、最初からデータにより提供する、ということです。例は省略します。

データ化を効率化する。手打ちによる転記ではなく、紙の情報をスキャンしてOCRをあてて、文字データを生成するようなアプローチのことです。様々な計測器を使い食材データを計測するのではなく、電子レンジのような機器にそれを入れれば、必要な情報をスプレッドシートに流してくれるようになるのはいつだろう。

物体を減らすアプローチと、物体のデータ化を効率化するアプローチは、異なります。前者のほうが抜本的だが難易度が高く、後者のほうが表面的だが即効性が高く難易度が低いものですね。

なお、そもそも、データ化する対象を減らす、というアプローチも存在します。食材の塩分濃度を計測したところでそれは誤差の範囲に過ぎず、出来上がりの味にほぼ影響がないのであれば、調理モデルの変数とする必要がないのでは、ということです。

おわりに

多くの人が、突然、データを大切に利用しよう・物体を減らそう・データ化を効率化しようと叫びだしたように感じています。何をいまさら...という感想ではありますが、そういったテーマの話を、ちょっとしたドライブの最中に投げかけれれたら、上記のようなことをボソボソと述べます。はっきりとした定義と構造的な要点説明を外し、ふわふわと書きました。データ化のコストを抑えたということなのですが、手を抜いた、とも言えます。

ちなみに僕は「アナログ」「デジタル」という言葉は、定義がいまいちピンときていないので、使いません。あえて、逆に、タイトルに採用しました。

冒頭の料理のたとえ話は、2割ほどフィクションです。8割は事実。フィクションは些末な部分です。料理を、会社経営や仕事技法などに置き換えていただくための話題であることはお気づきの通りです。

このあいだ、僕の秘書様が料理しているところを拝見しました。それは彼女の重要な業務のひとつです。そのプロセスは、すべてが目分量で、料理開始その瞬間ですら、厳密な成果物の定義は存在せず、調理過程における食材の変化を見ながら、「こんな感じにすれば美味しくなるのではなかろうか」といったもの。仕上がりはいつもどおり独創的でありながら完璧で、僕はどのレストランや料亭でも、これ以上美味しい料理を食べたことがありません。つまり、そういうことです。

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