写真が苦手
最近、何度も思い立っては、フォルダを開いて眺める写真がある。先月、家族で行った居酒屋で、アルコールの勢いに任せて撮った集合写真だ。映る人はみな、旨い食事と楽しい雰囲気に笑顔を浮かべていた。
しかしそれからひと月経って、今になっても、私はその写真のことが気になって仕方がない。
気になるというか、気に食わないのは、内カメラで撮られたその写真の、一番手前に映っている男だ。画面右端に見切れた腕の持ち主、つまりこの写真のカメラマン。公共の場でアホそうに歯茎をむき出しにしているソイツは、認めたくないが、私だった。嫌いだ。
勘違いしないでほしいが、私が何度もその写真を見るのは、楽しかった思い出を振り返る目的じゃない。むしろその逆である。
大嫌いな自分が写真に残っているのが嫌だから、思い切って右下の削除ボタンを押してしまいたい衝動が何度も湧くのだ。しかしその度に、この写真をいつか見たがる家族への義理を考えて、何とか消すのを我慢している。
だから、昔の写真を見て、懐かしいとかエモいとか、一度も思ったことがない。写真を見ている間、自己嫌悪がぐつぐつ煮えるだけである。
要するに、私は自分の容姿が嫌いなのだ。好きなところがない。ろくに褒められたこともない。
まず頭頂部も頬骨も顎も、顔じゅうが角ばっている。このせいで、横顔は平たいし、帽子は似合わないし、髪の毛の上からわかるほどに頭の形が歪である。なんだそんなこと、と思うかもしれないが、私以外でボルダリングできてしまいそうな頭の人は見たことがない。それくらい私の頭はゴツゴツしている。一時期あるサイトでイラストの練習をしていたが、アタリ(仮絵)を書いてみましょうと言われてお手本が表示され、そこには丸顔しかなかった。やはり希少種なのだ、こんな誤魔化しようもない四角頭は。それに加えてZ世代らしくスマホ角もあるから、禿げたら後頭部でシミュラクラ現象できるんじゃないかと言われている。
次に、肩が異様に大きいが、胴も足も細くて短い。つまり、
「お兄さんスタイルいいね、漫画みたい。」
「いやいや、褒めすぎだって」
「褒めすぎじゃないって、マジで漫画みたいだよ」
「ま、マジ?」
「うん、作・高橋陽一って感じ」
「キャプテン翼じゃねえよ!」
という、肩が大きい人にのみ許されたお決まりの自虐すら使えない。
絶妙にいじりづらい、ただ気味が悪いだけのアンバランスさということだ。妹はしばらく考えてから、「確かにキャプ翼は無理だけど、高齢化社会って感じはあるよ。」と言ってくれた。
日本の人口ピラミッドじゃねえよ。
と言ってみたが、ちょっと痛々しい。
また、容姿の造形美というアドバンテージがなかったとしても、中身の魅力がにじみ出ていて素敵な人というのはいるものだが、私にはそれもない。私の笑顔には品がないのだ。努力もしないし優しくもないから、品性が育っていない。
心の美しさが容姿に反映される世界というのを広告の漫画で見た気がするが、私がそこに行ったらたぶんコバエになる。小っちゃくて弱いのに、異様に人に不快感をあたえる心だから。
つまり、私が自分の映る写真を消したい心理は、コバエを叩き潰したい心理と同じと言える。別にコイツも悪気があるわけじゃないし、と思って見逃すときがあっても、基本は不快で見たくないもの、消したいものなのだ。
それに加えて、写真を見るたびに自分がキモいことをいちいち自覚してしまうことも嫌だ。うんざりする。ただでさえ低い自己肯定感がさらに下がってしまう。
自分の見た目が嫌いという思いは、いつも私のなかにあって、私の人生を歪めている。
例えば高校のとき、教室や修学旅行先にカメラマンがあらわれると、私は教室の外や柱の陰に全力で隠れていた。単体で写真を撮る価値のある人間ではないし、思い出を写真に残そうとしてくれる友達もいなかったからだ。
だから、高校の卒アルは私が映る写真が異様に少ないし、その数少ない写真も、一度親に見せてあげた後は処理した。写真がある部分にのりを塗って開閉することで、事故に見せかけて破くのだ。
この工作は、小学校の卒アルを普通にマッキーで塗りつぶしたら、後で開く機会があったために犯行が親にバレたことと、久しぶりに開いたその時に紙がぱりぱりに張り付いて剥がしにくかったことから発明した。
この卒アル破壊も、もしかしたら普通の人は「ひどい!」とか、「おかしい!」とか思うのかもしれない。しかし、驚くなかれ。私の自己嫌悪は、高校がピークでは無い。小中の期間がもっと酷かったのだ。
小学生のころの私は、見た目からして特徴的だった。夏も冬も、常にマスクをしていたからだ。
たしか、つけ始めたきっかけはただの風邪だったが、いつの間にか外せなくなっていた。学校ではずっとマスクだったし、家に帰れば外せるものの、鏡に映る自分の顔がすごく嫌いだった。だから夜になると、顎についた小さいホクロが憎くて、ほじくり出せやしないかとボールペンの先で攻撃していた。何度もやると血が出て痛かったが、ほじくり出したいのだから、痛みこそ成功の証だと思って、懲りずに血が出るまでやっていた。
そう、私は話題のマスク依存症というやつを、今よりずっと前に、流行病もないのに体験していたのだ。誰かに悪口を言われた覚えもないのだが、なぜか家以外ではどうしてもマスクを外せなかった。
それでも、無理すれば集合写真の時などは外せていたのだが、こういうのは無理すればするほど、段々悪化する。
そして中学の頃には、マスクを何がなんでも外さない、外されそうになると力の限り怒るという、クソめんどくさい人間になっていた。お調子者に耳を触られてぶち切れたり、学校行事のなかで色々な壁にぶつかった。その先には、1年半の不登校があった。
たかがホクロ1つで面白いくらい転がり落ちた私の人生だが、きっかけが小さいだけに、立ち直りもあっけなかった。学校に行けない理由を何度も問われて、誤魔化しきれず、ついに自分の顔が嫌いだという本音を話した時に、母親が泣いて、ごめんねと言ったのだ。自分のために人を泣かせるのは、物心ついてから初めてのことだった。
そのショックが良かったのだろうか、私は急に気力を取り戻し、依存症の克服に挑んだ。保健室登校をやめて、なじめない教室で少しずつ授業を受けながら、人のいない廊下を見つけたら素顔で歩くことから始めた。
案外簡単に成果は実って、中学の卒業証書は素顔で受け取ることになった。証書を腰に構えて、壇上でくるりと両親を振り返った時、母親がぱっと父の背中に顔を隠したのを覚えている。その肩は、やはり震えていたのだろうか。
それから私は、高校、大学と進学しても、一度も自分の容姿を口に出して卑下しなかったし、必要な写真には素顔で映った。まあ、卒アルを破いたり、できる限り写真から逃げたり、自分の顔は嫌いなままなのだが、親にバレなきゃいいと思った。
色々寄り道をしたが、要は今回の写真を消せないのもそういう訳だ。自分1人で撮った写真ならとっくに消している。ただ、この集合写真は消せない。いつか親がこの写真を見返したいと思った時に、消したのがバレて、私が自分の顔を嫌っていることまでバレるのが恐ろしいのだ。
さて、優しい皆さんなら、ここで思ってくれたことだろう。そんなにいやなら消してもいいし、逃げてもいい、無理に撮らなくてもいいんだよと。
そう、撮らなきゃいいのだ。
しかし、思い出して欲しい。冒頭の説明で、撮影者は私だと言ったはずだ。そして実は、提案者も私である。
どういうことかというと、つまりこれは、自分で撮ろうと提案して、自分で撮って、あとからこうして、消したいけど消せない!!と思案しているわけだ。
完全にマッチポンプ。何をやっているんだ?
この馬鹿な行いは、たった一言で説明がつく。本当に、この一言を言うのは恥ずかしいが、ここまで読んでくださった方に敬意を払って、言わせていただく。犯行理由は、ずばり。
「酔った勢いでした!!!」
…実は、ここまでネガティブな気持ちしか説明しなかったものの、私というのは、BADモードに入っていないあいだ、つまりテンションの高い時、正直に言えば、非常に夢見がちな人間である。
アイドルソングを聞きながら、肩と足でリズムを取って通学したりする。目が合っただけで恋の予感を感じる。この例えが合っているか分からないが、テンション高い時だけは、おバカな女子中学生みたいになる。
このハイテンションモードは、朝、カフェイン、アルコール、のどれかにつられてやってくる。
だからあの時も、日本酒を3杯ほど飲み干しながら楽しく話していたら、乙女モードがやってきた。そして、そんな自分が空のグラスに映った時、思ってしまったのだ。
「今日の私、超盛れてないか!?かわいくない!?え、みんな撮ろーよ!」
カメラを構えて撮る。笑顔とピースで映る。みんなに見せる。酒を飲む。松浦亜弥を路上で歌いながら帰り、明日もいい日になりそうだと思いながら眠る。
そしてひと月後の今、冷静になって写真を見返し、
「なにこのニヤけ顔、気持ち悪。」
と思っているというわけである。
もう滅茶苦茶だろう。私もそう思う。
実は、私が真に悩んでいるのはここなのだ。自分の顔が嫌いなのは、中学卒業で折り合いをつけた。今も自分の容姿は嫌いだが、写真をなるべく撮らなかったり、自虐してみたりして、落ち込むのを回避する術を身につけた。だから、自分のことは嫌いなままだが、感情との付き合い方において成長はしている。
しかし、悲しいことに、その反省と成長の歴史を全て無に帰す怪物を、私は心に飼っているのだ。
それは、私が孤独に、男として生きるゆえに、餌を貰えず、いつもお腹を空かせている感情。名付けるなら、「乙女的承認欲求」か。
そいつが、ちょっと気持ちが元気になると、自己嫌悪の鎖を噛みちぎって飛び出してくるのだ。勢いで制御室を乗っ取ってそのまま、あとの後悔も考えず、おバカに楽しいことばっかりする。
このモードのとき、私はすごく楽しい。しかし、太陽というのはやがて沈む。カフェインもアルコールも、しばらくしたら切れてくる。結局、後悔にまみれる夜が必ずやってきてしまうのだ。
こんなんだから、私は最近、漫画やアニメで相反する属性を抱えて苦しむキャラに、謎の共感を覚えるようになっている。君も大変だよなと思う。私は疲れて死んでしまいそうだ。
ここで私の名前を見て欲しい。「結論ぼっち」。
私は今、周囲へ配慮する気持ちも含めて、友達をひとりも作っていない。
なぜこのような結論に達したか、もう分かるだろう。ハイとローを、夢女子と根暗陰キャを毎日行き来する、黒と白の服しか着ない男子大学生が、社会になじめるはずもない。
私がそもそも、自分という化け物を制御するのに精一杯だし、そうやって必死に手綱を握ろうとしても変な行動をしてしまう。
それならと、自分のマインドをそのまま説明したり、普通の人が普通に受け入れられるレベルに噛み砕いてみるのをやってみたが、あまりに難しいし、相手にかける苦労が多すぎて、諦めた。
人の理解を求めなくなった。人との関わりを求めなくなった。そして、諦めた人間には、誰も話したがらない。結論、ぼっち。
きっと、これを読み切った優しい人も、流れがぐちゃぐちゃになっているこの記事で、人が避ける私の変な感じをだいたいわかっていただけると思う。
このぐちゃぐちゃも、結局躁鬱もどきの一環なのだ。さっきまでつらつらと自己嫌悪のネガティブな気持ちの経緯を語っておきながら、急に乙女とかなんだか言い出したのは、嬉しいことがあったからだ。
いつも楽しく記事を読ませていただいている人が、たまたま私の記事にいいねをくれた、それだけなのだが、超嬉しくて舞い上がってしまった。それでこんなふうにめちゃくちゃに書いてしまった。いつもこうだ。
とはいえ、途中までは、同じように不登校期間があった人や、マスク依存症になった方には共感していただけるかもしれない。そういう気持ちに苦しんでいる人が、私の文章を読んで何か消化できたとしたら、「酔った勢いです!!」で読むのを断念されていたとしてもすごく嬉しい。だから、そういう可能性を信じて、今回はぐちゃぐちゃのままあげてみることにする。
これもあとから後悔するかもしれない。でも、最近の私のスローガンは「素直」になったから、これでいいのだ。
いいねを狙って小説みたいに書かないし、いいねが貰えなかったからって取り下げない。ありのままを伝えてみる。それで滅茶苦茶ならしょうがない、それが私なのだ。
これでいいと信じてやってみる。その繰り返しが、いつか私を後悔から解放するはずだ。
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