プラグマティズム

SDGsについて大学で学んでいる。
勝手な概略と私ごとについて誰に向けるわけでもなく綴る。

プラグマティズムとは、抽象的で「高尚に映る」欧州の伝統的な哲学の特徴としての観念論に、反旗を翻すかたちで発展してきたアメリカ哲学である。つまり、何であるか(観念)ではなく何ができるか(実用)を重視する考え方であり、観念論的思考に陥りがちな日本人に新たな視点を与えてくれる有効な思考の枠組みである。この概念は、「だれ一人取り残さない」という大きなスローガンを掲げるSDGsを実現していくために非常に有効である。SDGsを達成するために、自分ごととして理解、発信し自分自身の行動変容、社会変革に繋げるというスタンスが求められているからだ。実際に、SDGsでは、策定プロセスをトップダウン型から、ボトムアップ型に刷新し、バックキャスティングという未来逆算型の思考アプローチがとられている。グローバル化、多様性の尊重よって不確実性が増す昨今、もはや、前例主義的な発想では追いつけない課題だらけである。そこで、自分の立脚地を固めるための思考の角度、夏目漱石がいうところの自己本位という考え方(プラグマティズムの観点)が、予定調和でない世界、不確実性を楽しみながら乗り越えるカギになる。つまり、自分という出発点からの「行動」がより意味を成し、前提や属性は淘汰され意味を失われつつある。
 山中司先生は、計画的偶発論を引用し「完璧などない世界であるのだから、素直に行動する勇気を持とう、いずれつながりうる点をいっぱい作っていこう」と答えのない問いへの覚悟を持たせてくれた。この講義を受けて、私は、小学生の頃の夢を親戚に語ったことを思い出した。その頃、私は難民高等弁務官事務所の職員に憧れていた。テレビのドキュメンタリー番組で、日本人女性が難民キャンプで難民の方々を救う映像を見たからだ。難民キャンプの場所は覚えていないが、その女性は慶応義塾大学出身であった。それを見ていた私は「そんなに賢いなら、わざわざ難民キャンプに行かなくとも、多くの人の役に立つことができるはずだ」と幼いながらも彼女の身の危険を心配した。しかし、厳しい暑さの中、様々な国の同僚とともに走り回り、苦悩しながらも真剣に仕事を遂行していく彼女の姿を見て私は気づいた。そこには、身の危険を冒してまでも困っている人を救うという志の高さと聡明さがあったのだ。それから私は、家族や親せきに、国連に入って色んな国の人を救うことが夢だと言っていた。「大きいゆめだね、すごいね」と大半の人が言ってくれていたが、地元の市議会議員を務めていた伯父は「社会問題なんてもっと身近なところにたくさんあるじゃないか、そんなに遠くばかりみる必要がどこにあるのか」と批判された。そこから私は、志の高さと物理的距離の相違があることにショックを受け、一体何がしたいのか分からなくなってしまった。「本当の意味での人の役に立つとは」や「価値とは」など、観念的なことばかりに頭を悩ませ、その間にも無情にも進んでいく地球温暖化やごみ問題に失望する中学、高校時代だった。
 しかし、その観念的な思考を踏んだおかげで、真剣に、持続可能な社会の実現に寄与する人材になりたいと思えている、ともいえる。そして私自身も、慶応義塾大学という名から勝手に、「彼女はもっと多くの人の役に立てるはずだ」と観念的に思ってしまった人間でもある。これからは、プラグマティックな思考で行動することをもっと大事にしていきたい。そして、ただアメリカ的発想になるのではなく、日本人としての自己本位も創造していきたい。日本や欧州の伝統的な思考からも「ブランド」という歴史があるからこそ生まれる価値がある。イデアリズムとプラグマティズムのいいとこどりが出来れば、欧米にない日本らしい課題解決の糸口がみつかるはずであるし、探し続けていかなければならない。

何の関係もない4年前に行ったオレゴンのMt.Hoodの写真(iPhone)↓

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