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聾学校時代

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幼稚部から中学部まで13年以上通った聾学校時代のNoteをまとめています。 ※マガジン分類は今後変わることがあります
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2021年8月の記事一覧

卒業式は見事に規律がとれた軍隊演習のようであった。それでいながら、私の卒業式答辞を誰も「聞いて」いなかった。

私の聾学校卒業式は、幼稚部小学部中学部でまとめて1つの卒業式であった。体育館舞台を前にして、右側前方から幼稚部、小1,2,3と学年ごとに横一列に並んで座った。左側には、中学部の在校生が横一列に、前から学年の若い順に座った。そして、舞台に向かって正面あたりには、右側から縦一列に、幼稚部年長、小学6年、中学3年が座る3つの列ができた。 卒業式の流れとしては、幼稚部、小学部、中学部それぞれに送辞答辞がある三部構成で進む。卒業生は、幼稚部、小学部、中学部ごとに舞台にあがった。そして

聾学校高等部にあがれば「手話」が解禁される。それまでタブーだった手話を堂々と使っていいのだ。あまりの変わりように、気持ち悪いと私は思った。

中学部行事として、毎年秋頃に弁論大会があった。テーマには、部活動、家族、自分の聴覚障害などがあった。弁論大会の作文は、自分で家で考えて書いてくる宿題であり、少なくとも私のときは弁論大会の発表原稿を書く時間が授業で取られることはなかった。 弁論大会のテーマは、習字でくろぐろと長い白い紙に書かれ、体育館舞台の壁に、発表順に貼りだされた。審査員は、中学部の先生たちであり、舞台の正面側に椅子を何脚か並べて座っていた。発表者は、体育館舞台下の、舞台に向かって左側で椅子に座り待機していた

自分がつまらない聴者のコピーになっているのではないかとぞっとした。そして聾学校の子どもたちの愛すべき複雑さと豊かさに思い至ったのであった。

聾学校の同級生の一人に、片耳だけ耳介がない子がいた。2歳頃のときから何年も一緒に過ごしたのに、どんな耳の形をしていたか私ははっきりとは思いだせない。ことさらに見る対象でもなかったからだ。耳穴もなかったのではないか。あったとしてもとても小さいものだったろう。 その子は、私たちがするようなイヤーモールドつきの補聴器ではなく、直径4センチほどの黒い円の補聴器をちょうど耳穴があるようなところにあてるように、つけていた。補聴器をかける耳介がないため、カチューシャのように補聴器のベルトを

聾学校の「養訓」は何を勉強する時間なのか分からなかった。道徳や学活と同じような位置づけで私にはそれらの区別はなかった。

聾学校には「養訓(ようくん)」という教科があった。養護訓練の略で、週に3コマくらい入っていたように思う。小学部にあがったとき、時間割は平仮名「ようくん」であり、「こくご」や「さんすう」と同じようにそういう科目があるのだと思っていた。学年があがり、時間割は漢字の「養訓」になっていった。それと前後して、近隣の小学校との交流授業があり、時間割には「養訓」がないことに気付いた。養訓は聾学校だけなんだなと思った。そして、養訓は養護訓練の略だということもどこかで分かっていた。だから一般学