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起きていることに意味は、

ある。


上の階のおばあちゃんのテレビがうるさい。
とてもうるさくて、今すごくストレスになっている。

インドのアシュラムにいたときにも同じようなことがあった。
うるさい、と思うことが。

同じことが何度も起きているということは、何か解決策が間違っていたりとか、学べていなかったかららしい。
しかも、まだわからんのか、まだわからんのか、と
どんどん事象は大きくなっていくようだ。

今回も受け取り方を復習するために上の階のおばあちゃんのテレビがうるさいのだろう。。

人に迷惑をかけてしまっている人は、大体その人が悩んでいたりすることが多い。
前にわかったこと、ちょっと忘れていた。
不機嫌な人は、何か悩みを抱えていたりするものだ。


インドにいた時、その毎日毎日何か忘れたけれど気に触ることをしている女性がいて、
確かドミトリーだったのに毎日大きな声で電話をしていたのかな。

うるさいからやめて、なんてそんなことは簡単に言えるのだけど、
瞑想などをしてなんだかクリアになっていた私は勇気を出して、「何か悩んでいる?困っている?」と聞いてみたんだった。「何か悩んでいる?困っている?」と聞いてみたんだった。


そしたら彼女はポロポロ泣き出してしまった。そしたら彼女はポロポロ泣き出してしまった。

家庭の問題のようであった。

私にも何か言ってアドバイスはできるだろうが、アシュラムには先生がいる。
そして、私の大好きな先生もちょうど滞在していた。
その先生に相談してみるといい。といって取り次いだのか、紹介したのだった。
(全部つたない英語でなんとか伝えた気がする)

結果彼女はすごい笑顔で帰ってきた。すごく軽くなって帰ってきた。

先生は何を伝えたのかはわからなかったけれど、とってもよかったみたいだった。

それからいく日か経って、ドミトリーで彼女と二人きりになったときに、ちょっとそこに立っていてくれる?と言われ
なんだろう?と思っていたら、何かを唱えて足にタッチしてくれた。

インドで人の足に触れるということは、尊敬している時とか、神に触れるときとか、それはもう大事な時にだけ行う行為だ。
私はびっくりしたのを覚えている。

彼女は先生に相談したことで、とてもかわったのだろう。楽になったのだろう。

あの時、怒るのでなく、寄り添った言葉をかけた先にこんなに素晴らしい瞬間があったのだ。ということを忘れていた。

上の階のおばあちゃんはきっと補聴器でも壊れて困っているのだと思う。
怒らずに寄り添えたら、また世界は一つ優しくなるような気がする。

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アシュラムでは、お互いに英語が得意でなくても、
それでも美しいと思える瞬間をたくさん一緒に経験する。
言葉はなくても、人と人は繋がれる。よりシンプルに繋がれる。


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