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あとがき③ makerugakachi

これから数回に分けて、アメ研に関するあれこれを書き残しておこうと思います。「形に残すこと」、大事。なるべく忘れないうちに、沢山の事を書き起こして残しておきたい。

今、手元にmakerugakachiの卒業制作がある。ジャケットは、つい先日(21年12月上旬)撮影したばかりの写真。裏面には、同じ愛知県の西浦海岸で2年前の夏に撮影した写真。こうしてみると、やっぱりずいぶん違う。未熟でどこかあどけない4人が砂浜を見つめているのが裏面で、ちょっと大人びた(冬服だから余計に…?)ように見える4人がバラバラの方向を向きながら、でも同じように前へ歩いているのが表面。決してそれぞれを意図して撮影したわけではない後付けの文章ではあるが、なんだかとってもこのバンドを象徴する姿のようにも見える。そんな2枚の写真が表裏一体となって、集大成ともいえるアルバムを飾っているのだ。

この「あとがき」を書く上で、どんな風にそれぞれのバンドの事を振り返ろう?と思ったけど、とりあえずわかりやすそうなので、アルバムの各曲ごとに区切ってまとめていくことにする。

Track1:hymn

そもそもmakerugakachiというバンド自体、「これからこの4人がmakerugakachiだ!よろしくね!」となったわけではない。それぞれ高校からのやんわりとした繋がりがあったし、悪い言い方に聞こえるかもしれないが結構「なし崩し的に」結成されたバンドなのかもな、と思う。そしてこのhymn自体も、バンドの結成と同時期にはほぼ完成していたように記憶している。

以前「One Room Holic」のライナーノーツでも書いたけど、この曲を作った当時のバンドの一体感は凄まじかった。これから始まる3年間はきっと最高のものになるんだという根拠のない自信があったし、何もかもが上手くいっている気がした。よく考えれば、当時はメンバーのうち3人がバンドの掛け持ちをしていたのに………それでよくあそこまで騒げたものだ。オイオイって感じですわ(?)。

7月末のサマコンに始まり、8月には真夜中の海に出かけ、(裏面のジャケットはこの時に撮影した)合宿があり、明けた9月は東京旅行にレコーディングにライブ…。9月上旬は2~3日に一回くらいは顔を合わせていたように感じる。そしてこれを機に、バンドは一回目の下り坂を迎えた。

このバンドのトラブルは、基本的に「4人の方向性がバラバラになる」のではなく、「誰か1人の足並みがそろわなくなる」「2-2に分かれる」ことが多い。そしてこの時の下り坂は、正直自分が足並みを乱したとはっきり懺悔できる。但し、もちろん当時の自分は今と比べて圧倒的に未熟だったし、今ならもっとうまく感情を角が立たないように伝えられるかもしれない。けれど、当時の自分を完全に否定しきれないのは、今でも同じ気持ちを持ち続けているからだと思う。

なぜこの時足並みを乱してしまったのか?これはバンドの方向性として、「定期的にレコーディングとライブ活動をして、makerugakachiを売りだしたい」という空気に自分がついていけなかったからだ。(というより、それをうまく伝えなかったことの方が主原因だが……ここではあくまで、備忘録的に当時考えていたことを羅列するにとどめる)その理由は2つある。

1つは、「自分の音楽を修正されたくない」という想いだった。高校生の頃、むしろ前述したようなバンドをやっていた時によく「ライブ後に自分たちの演奏や楽曲を業界の人(ライブハウスの人やコンテストの審査員など)に評価してもらう」時間があった。勿論音楽は修正を含めた客観的な視点を取り入れることで成長していくものだし、その時間が大切なのは間違いない。しかしそれと同時に、「このアドバイスに従う事が正しいのか、自分が正しいと思うことをやるのか、どちらがいいんだ?」という疑問が生じた。アドバイスを受け入れることは、確かにバンドが前進するために必要だ。しかし、アドバイスの中身は時として自分の理想とする曲の姿と一致しない。バンドとしての前進か?自分の理想の追求か?という2択を迫られたとき、僕は後者を選びたくなった(というか、今も選ぶ)。決して音楽的に成長していけないとしても、自分の好きな音楽を「正解に近づけていく」作業が苦痛だとしたら、そうしない方がいい。お山の大将のままだとしても、好きな音楽をやっていたい。オーディションやコンペティションで誰かと競い合うよりも、殻にこもって自分の好きな音楽を極め続けたい。そう思ったとき、「バンドとして売り出してく」中で直面する「修正」と素直に向き合いきれる自信がなかったのだ。

そしてもう1つ。自分にはOnjukというもう一つのバンドがある。(サポートではあるがPurple Hopも)バンドを掛け持ちするにあたって自分の中で決めていたのが、「なるべく2つのバンドに均等なエネルギーを使う」という事だった。確かに当時のバンドの完成度としては、高校からの知り合いで技術も成熟しつつあるmakerugakachiと、バンド初経験+楽器未経験のメンバーも含んだOnjukとでは、ある程度の差があった。しかしだからといって、「makerugakachiを全力で売り出し、Onjukは部活として」みたいなことはしたくなかった。2つとも自分の中で大事なバンドだ。どっちがメイン・サブなんてこともないし、同じメンバーで3年間続けるんだからどっちも楽しみたい。そう考えたとき、「makerugakachiは毎月ライブをやって、曲を作って……」みたいなことは正直できないな、と思ったのだ。

(そして、その伝え方を間違えてしまった)

Track2:トロイメライ

そんな事もありつつ(そんな事…で片付けていいのか)、なんだかんだ4人は活動を続け、秋口には部活関係のライブを3つほどこなした。そして年末、アメ研として初となるコンピレーションアルバム制作の話が舞い込む。当初makerugakachiとしてレコーディングする曲は「追憶」だった。つい本番数日前も、レコーディングの練習として「追憶」を合わせていた。

しかし、どうにも納得できない。曲自体は9月末に完成していたし、ライブでの披露も済ませていたので演奏自体は成立している。だけど何か足りない。(その何かが何なのか、今となっては正直思い出せない)もう少し時間をかけるべきなのか?でもレコーディングの日が近づいている。どうする、どうする……と迷い、恐らくこのバンドでしてきたワガママの中で一番大きいワガママであろう「曲を変えさせてほしい」という提案をした。それが「トロイメライ」だった。

「トロイメライ」は、19年の冬定演(とその1週間ほど前にあった外のライブ)に向けて制作された曲だが、履歴を遡ってみると12月の3日に歌詞全編とデモ音源を貰っていた。そして自分のカレンダー履歴では12月8日に「追憶練」が入っている。レコーディングは21日。もし8日の練習で変更を提案していたとしたら(或いはそれ以降なら輪をかけて)結構無茶な提案だ。それでも、恐らく12月19日の練習では、トーク履歴の中身から察するに「トロイメライ」を録る方向に切り替えていたようだ。ある意味すごい(by全ての元凶)。

しかし!敢えて美化した言い方をすると(しないと謝罪文反省文の羅列になりそうなので…)、この段階でも変更した事は正解だった。冬定演で最高の先輩を送り出すときに「くだらない日々が 終わらなければいいのにな」と歌った時の事は忘れられない。今でもその映像が残っているけど、演奏自体は多分過去一番の出来の悪さだ。だけど伝わってくるものは過去一番大きい。そんな定演だった。

(ちなみに、「トロイメライ」のコーラス部分を練習して録音した音源の名前は「みんなでうたお」だった。かわいい)


Track3:追憶

明けた2020年、バンドは年始早々にライブを1本こなし、そこから長い眠りについた。そしてそれに逆行するようにして神武以来の疫病が猛威を振るいだしたことで、予定されていた春合宿やフレマンも中止に。活動はおろか、メンバーが顔を合わせる機会すらなくなった。

そしてそのせいもあって、バンドは深刻なコミュニケーション不足に陥る。僕らのいけないところは、「それぞれが全面衝突を避けようと言葉を選び本音を飲み込むことが、かえって火種になる」ところじゃないかと思う。そんなこともあり、また色んな事もあって、自分の中にも「解散」という文字がよぎりだした。(その原因とか経緯は、ここで大っぴらに書くようなことでもないので省略する)

しかし、疫病が一旦静まった秋。こっそり開催した不定演で、バンドは再び顔を合わせる。1曲目「夜間通用口」のイントロが始まった瞬間、なんだかmakerugakachiというバンドが生まれ変わったような、第二章が始まったような、そんな気がした。4人での演奏はやっぱり楽しい。初心に帰るというがまさにその通り。「hymn」を合わせて盛り上がっていた4人が戻ってきたと感じた。そしてその勢いのまま、1年前に断念した「追憶」ともう一度向き合うことになる。

「追憶」は、この時点で自分が2つのバンドにおろしていた曲のなかでも特に思い入れが強かった。歌詞も考え抜いて書いたし、曲も自分の理想に限りなく近い。だからこそ、完全な形で録音したかった。それができないと判断したからこその延期だったのだけど、不定演での演奏を経て、「これはいけるかも」と思えたのだ。

果たして完成した音源は、メンバー全員納得の素晴らしいものだった。「自分の作品は補正がかかって良く見える」と言うが、それでもやっぱり良い。自分の目指すものにメンバーの色が混ざった、酸いも甘いもすり抜けて脂がのってきたmakerugakachiの新しい音源だ!曲の物語も「苦悩から希望へ」というストーリーの流れがあるが、ある意味バンドにとってもこれからの希望を示唆するような音源になった。

Track4:Night Diver

しかし、思いと裏腹に疫病は息を吹き返し、再びバンドとして顔を合わせる機会は減少することになった。ただあくまで「バンドとして」であり、むしろ昨夏と比較すると、アメ研外のバンドで一緒になったたじこーと2人で会う機会が増えた。そしてその頃から、「バンドの活動にあまり多くを望むのではなく、最低限これだけはやり切りたいという具体的なプランを決めておこう」という2人の間での決定が下され、それを4人で改めて共有するようになった。それがすなわちこの卒業制作である。やるからには選曲と残りの作業日程までしっかり決めたい。その中で選ばれたのが「Night Diver」だった。

レコーディングしたのは8月の中旬。その直前に主催ライブがあったこともあり、バンドはまた久しぶりに集合した。4人での演奏はこれまた約4か月ぶり。このバンドのいい所でもあり厄介な所は「ブランクがあっても練習が少なくてもなんだかんだ8割くらいは完成しちゃう」ところで、この時も割とゆるっとした空気でライブを成功させ、レコーディングに挑んだ覚えがある。(ちなみにこのライブに向かう際、初めて4人で同じ車に乗って移動した時のちょっとした感動もよく覚えている)

ごんだが二日酔いで来たのでボーカルレコーディングはやや難航したが、結果的には良いものが録れた。というか、個人的にはこの5曲(+1)の中で一番この曲が好きだ。最終的に「Night Diverにしようか」と言ったのが自分だったかどうかは定かではないけど、元々かなり気に入っていた曲だし、それを録り切る事が出来てとても満足した。ミディアムテンポの曲は演奏していて心地いいし、イントロの爆発力もある。いい曲だ。

Track5:ドラマ

夏を越え、引退まで残すところ4か月を切る頃。バンドはまたまた厳しい局面を迎える。もう本人も引退の挨拶で言っていたから敢えてここはガッツリ触れるけど…ごんだの脱退話が飛び出した。残る3人でどうする、どうする…?とあれこれ話し合ったことはもう既に懐かしいが、このnoteでは当時自分がどんな事を考えていたのか、はっきり書き記すことにする。

まず想いの根幹は、「抜けてほしくない」という気持ちだった。しかしそれには当然色んな理由がある。この別れ話(?)を八事のコメダ珈琲店でしたことは今や笑い話(になって良かった!)だが、その時に話した理由は主に3つ。1つは(はっきりと明示しなかった気もするが)「3人でバンドを続けていく事はいずれにせよ難しいだろう」ということ。2つ目は「残り少ない期間だし、綺麗に4人で引退したい」ということ。最後3つ目は、4人それぞれの将来のこと。最後だけちょっと詳しく書くと、そもそもこの話はごんだの将来を考えた時、「(売り出し中で大忙しの)外のバンドと両立するのは厳しい。なあなあな気持ちで続けるのも悪い」といったような考えがあったことに由来していた気がする。そこでそれに対して「ごんだの人生も大事だし、僕ら3人にとっても人生で最後のバンドかもしれない。皆の人生に関することだから多数決とかじゃないけど、そういう想いもあるよ」みたいな話をした覚えがある。この時本当に悩んだし、makerugakachiを足かせにはしたくない思いも強かったから、脱退の意志が固ければ無理に引き留める事はできないね、と3人で話していた。しかしそう話す一方で「無理にでも引き留めたい」という想いが確かにあった。それが隠しきれていなかったかもしれない。(また、そもそもフロントマンでありボーカリストでもある人間が抜ける事自体バンドの存続にかかわるじゃん、とも思ったが)

そして、あの場所で話さなかった理由がもう一つある。たぶんこれは他の2人にも話していない気がするが、それは「makerugakachiという繋がりをこういう形で絶ってしまうことで、ごんだと友達でいることができなくなるんじゃないか」という怖さがあったのだ。

先日、NHKで「ふたりのディスタンス」というドキュメンタリー番組が放送されていた。そこで紹介されていたのが、「TEAM BANANA」という1組の女芸人さん。2人は高校の同級生で、アマチュア時代にM-1甲子園という大会で一躍注目を集めてプロになるも、友人から相方に立場が変わったことで衝突が増えた。その中で、友人を友人として見られなくなっていくことへの葛藤があったそうだ。そうした一連の様子を見て、なんだかすごくわかるものがある気がした。

ごんだとは高校が違うし、外部でも3年間を通じて(記憶では)1度しか同じバンドを組んだことがない。それも卒業間際のライブ用に組んだバンドで、makerugakachiのような定期的かつ継続的な活動をしていくバンドではなかった。彼との間には一定の距離があって、でもそれが良い方向に働いていた。ずっと一緒にいるわけでもないけど、たまにライブで顔を合わせていろんな話ができる仲だった。

しかし今、makerugakachiという1つのバンドを続けてきた「バンドメンバー」という関係性が、何かを変えてしまったんじゃないかと思った。このまま脱退すると、恐らく彼は外のバンドへまい進するだろう。それはそれで良いんだけど、そうなるとただでさえ忙しい彼との接点は本当になくなってしまうんじゃないか。決して綺麗な終わり方だとは言えないのに、いつか「久々に4人で集まろう!」なんて出来るんだろうか。彼はちょっと違う世界に行ってしまって、アメ研に戻ってくることはないかもしれない。少なくとも戻るのに心理的な何かが邪魔をするかもしれない。2年半近く活動を続けてきて思ったのは、「バンドメンバーである前にまず友達である」はずだという事。たじこーの事やなずなさんの事だって「えぇ………」と思ったことはあるし、きっと彼らも自分をそう思ったことは一度や二度ではないはずだ。でも今こうしているのは、4人の「友達」という関係性が前提なんじゃないだろうか。それをここで終わらせたくない!終わらせてはいけない!と強く思ったのだ。

しかし、こうして書いてみても、やっぱりなんだか精神論というか考えすぎというか、見方によってはずいぶん暑苦しい想いにも見える。最後なんか泣き落としみたいだし。別れ話をするカップルみたいだ。当時もそんな風に思って、これは言わないでおこうと決めた。言わないでおこうというよりも、「言ってしまったら、ごんだの性格からしても断り切れないかもしれない」という心配があったのかもしれない。しかも結局この話をしないまでも割と強引に残留を決定させてしまった節もある。

……と、なんやかんやあってバンドは4人のまま、サマコンと学祭を終えていよいよ引退シーズンへ突入する。最後にレコーディングしたのは「ドラマ」。7分の大長編だ。そしてこの曲のレコーディングにおいて、また自分が変な思考スイッチに入ったせいでメンバーに申し訳ないほどの誤解を与えてしまったようなので、ここでその「変な思考スイッチ」の全貌を書き残しておくことにする。

まずどういう誤解かというと、「ドラマ」のレコーディング2日目のこと。僕は前に用事が入っていたので途中からしか行けなかったのだが、着いたのがミックスダウンが全て完了した最終確認のタイミングだった。当日のコーラス録りやミックスのリクエストには参加しておらず、ついていきなり完成形を聴くことになった。そしてその時、どうも僕が深刻なほどの浮かない表情をしていたようで、それが「意見を求めることなく完成させてしまったのでは…?」という心配を招いてしまったらしい。ごめんね。
しかし、深刻な表情をしていた理由の心当たりはある。それは心配の中身とはむしろ逆で、「とにかく完成したドラマの音源が良すぎた」からだ。

makerugakachiとOnjuk、いずれのバンドにしても作曲者が2人以上いる。僕は曲を作って、その雰囲気からどちらのバンドにおろすか(或いは自分のものにするか)を決める。そうやって今までやってきた。しかしそうした中でずっと劣等感に苛まれてきた。これは多分メンバーに言ったら「そんなの誰も思ってないよ!」と怒られるだろうけど、敢えて正直に書くことにする

前述したとおり、僕は自分の好きな音楽を追求したいし、それを修正されたくはない。と同時に、自分の作った音楽がそれなりに良いと思っている。別に万人に評価される必要はないわけで、ある意味自己中心的に「自分が好きならそれでいい」という考え方で来た。別にそれだけなら誰にも迷惑はかからない。

しかし、例えばmakerugakachiだけでも、主にたじこーと2人で曲を分担して作ってきた。その中で、これまで作った曲を見返した時に自分の曲があんまり「ハネていないのかもしれない」と思うようになってきていた。むしろ大きく取り上げられているのは「追憶」くらいで、それ以外にもある程度の曲数を作ってきたがどれもライブの定番曲として定着せず、一度の演奏で終わってしまった曲もあった。

「他人と比較すること」。これは自分の昔からの悪い癖だ。そして比較しだすと、「他人へのいい評価」が大きく見えて、「自分へのいい評価」を見失ってしまうことがある。この時、まさにそれに陥っていたのだ。完成した「ドラマ」の音源は、自分でもうまく演奏できていると思うし、自分以外の3人が作り上げたものも素晴らしい。まさしく集大成にふさわしい作品だろう。ただ、ただ、叶うなら、自分もそのようなポジションの曲を作ってみたかった。別に誰が作ったから偉いとかすごいとか貢献度が高いとかそういうことじゃないのはわかる。しかし、圧倒的な完成度の音源を前にしたとき、自分のこれまでの曲はなんだかとてもちっぽけに思えたのだ。

もっと詳しく言うと、この「ちっぽけ」というのは単なる曲のスケールではない。別に曲自体はとても気に入っているし、自分でも自信作と思えるもの達だ。ただ、ここでさっきの「自分が好きならそれでいい」という考え方ではカバーしきれない部分が出てくる。

バンドで演奏する以上、その曲は「バンドに合ったもの」でなくてはならない、というのが自論だ。「追憶」をOnjukで演奏しようとはならないし、「Yamabiko」をmakerugakachiでやるのも違う。曲をバンドにおろした以上、その曲はそのバンドで演奏することこそに意味がある。makerugakachiで演奏した自分の曲は、多くが元々このバンドで演奏することを念頭に置いた上で、アレンジやメロディーラインを考えて作ってきた。

しかし、次第に自分が持っている音楽の引き出しの中から、それこそ「hymn」や「トロイメライ」を凌駕するような曲が作れるのかわからなくなってきた。20年の秋におろした「アンコール」や、おろしたものの演奏しなかった幻の曲「トワイライト」は、正直頑張って寄せようとしたもののmakerugakachiの音像からは遠くて、音源を送った当時から「これじゃないなぁ」という違和感が既にあった。そんな事を繰り返しつつ、最後にこれだけの音源を聴いた時、達成感の裏で恥ずかしいような悔しいような、何とも言えない気持ちがあったこともまた確かだった。

と同時に、この日は引退ライブのセットリストを決定する日でもあった。焦点となっていたのは、「追憶」をとるか「不透明」をとるかという事。結局別の曲を削って2曲とも演奏することになったのだが、この日集まるまでは自分の曲同士の二者択一だった。

普通に考えれば、卒業制作にも採用された「追憶」を取るのが自然な流れだった。でも、どうしても「不透明」が捨てきれなかった。そもそもこの曲自体が冬の定演を終えて作った曲だったし、完成した時期は夏前。やろうと思えば8月の主催ライブでもできたけど、練習日程の都合でやむなく見送られ、サマコンでも見送られ、初披露は学祭になった。その時の演奏が想定よりも悪くなかったこともあったし、この曲は珍しくmakerugakachiのスタイルに近づけているんじゃないか、とも思えていたので、絶対に冬定演でやるぞ!という気持ちでいた。あるいは、この曲もまた1回しかやらなかった曲リストに行ってしまうのか…それは避けたい!という想いもあった。だがしかし……曲・演奏のクオリティとしては「追憶」が勝っている。そして、ここにきて再び自分のワガママを通してもいいのか、でも後悔しないのは「不透明」だけど………という迷いがずっとあった。

後日、この事に関して「別に私達はやりたくないわけじゃないんだよ!」というツッコミが入ったけど、それは確かにそうだ。しかしそれ以上に、1つのバンドに複数人のソングライターがいる状況で、自分の曲に日の目を見てほしいというエゴが強かったのだ。名曲ぞろいのmakerugakachiオリジナル曲ラインナップの中で、ひょっとすると自分の曲は劣っているんじゃないか…?バンドの中での「B面メーカー」になっているんじゃないだろうか…?という、言ってみれば「誰も悪くない悩み」を抱えていた。思えばこんな話をメンバーにしたこともなかったし、そもそもそれで「いやいや、たなりゅーの曲だって良いじゃん」と言ってもらえたところで「なぁんだ、そうだよね」とすぐ納得できないめんどくさいオチが待っていると思っていたので、敢えて言おうとも思わなかった。そんな「言わなかったけどずっと抱えていた不安」が、音源の完成を契機に態度として出てしまったんだと思う。ごめんね。

Track6:

でも結果的に、定演は無事に終わり(「不透明」もやれたし)、makerugakachiは4人のままでゴールテープを切る事が出来た。なんだかんだと書き連ねているうちになんと1万字ほどの大長編となってしまったけど、それでもこのバンドには1万字でおさまり切らないほどの色んな思いやこれまでの積み重ねがあったし、自分の大学生活を構成するかなり大きな要素としてあり続けてきたんだと思う。そしてさっきの話じゃないけど、バンドが一旦引退して活動休止となった今、改めてメンバーそれぞれとまた「友人」になれた気もする。それはなんだか接しやすくもあり、逆に「メンバー」というより細かい接点を失ったことによる一抹の寂しさになっていたりもするが。

くだらない日々が 終わらなければいいのにな
そんな今日だから 泣きそうだ 泣いてしまうな

この言葉を全員が心から歌えたバンドをやり切る事ができたことが、とても大きな財産だなと思う今日この頃です。