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志と、技術と、上達と、やりたいことの先にあった壮大なドラマの話。

自分の場合、基礎技術や製法を先に学んで、そこからやりたいものを作るというよりは、
作りたいものがあって、そのために必要な技術や知識を集めて自分のものにする、という順序でやっているので、やっていくなかで分からないことが出てくることがよくある。

これもそのひとつだった。


しゃりっとした砂糖の結晶。

ファッジを作ってから、キャラメリゼとかフォンダンとかで謎だった部分がするするとほどけていって、それぞれを作るときに失敗することがなくなった。

器用な人って、見ただけでなんとなく要点を掴んで再現することができたりするらしい、
わたしもある分野ではそういう部分を持ってるけど、料理や製菓の技法についてはそういうのがない。

だから、ひとつひとつの素材にフォーカスして、それぞれの扱い方を知っていく、次に組み合わせていく、みたいに順序立ててやるようにしてる。そうすると、「失敗しなくなる」。

(成功する、と 失敗しない、は同じようでいて少し違う。と思う。)

できるようになるのは楽しい。

できるようになることが増えるのが楽しい、というよりは、できるようになることが増えたことで、やりたいこと、作りたいものが実現できるというのが楽しい。
(まどろっこしい言い方だ....)

こないだ、某アーティストがこんなこと言ってたっていう動画を見かけた。

できる人がこういうこと言ってくれるのって、できない人からするとすごく.....
背中を押されたような気になるものだ。

俺もそうだった、それでいいんだよ、がんばれよって。

語ることの意味、言葉にすることで与えられる力、そういうののすごさは、
自分の動き回れる範囲をずっとこえて、ある時には全然知らない人にまで届いて、その人をモチベートしてしまうことだ。

今日は発酵菓子をつくった。

酵母をおこしてから、やりたかったことのひとつが発酵菓子だった。

郷土菓子とか、昔からの素朴なお菓子、料理を作ってみると、
「ああ、こういうふうにして、素材を無駄なく使い切ろうとしてたんだな」とか
「こうしてその美味しさや風味を長持ちさせようと工夫していったんだな」とか、そういうことがわかってくる。

それがわかりたくて作ってるわけじゃないんだけど、なんか見えてきてしまう。

今回作ったお菓子は、酵母で発酵させた生地でフィリングを包んで焼いたものなんだけど
そのフィリングっていうのは、ラムレーズンやナッツに、ケーキのクラム(スポンジ生地の切れ端とか)を混ぜたものだ。

デザートで作ってるクラムケーキもそうだけど、残ったものを余さず使って一品に仕立てる、そういう気持ちが見える。

これを作ろうと思って材料を集めるといろいろあって面倒だ。
ケーキ生地の切れ端なんていつも家にあるものじゃないから、買ってくるか焼かなければならない。

でも、これはもともと「あるものを使って工夫して作られたもの」なのであって、
基本的にはそれを作ろうと思って準備するものではないのだ。

(幸いなことに、うちのお店にはいつもケーキがあって、その一部を使うことができる)

パンでも、パン粉を生地にまぜこんで仕込むビューリーブロートっていうのがある、
それはきっと、硬くなったパンをパン粉にして、それを使いきる、あるいは新しいパンとして再生して、また美味しいパンとして食べるためにそういうレシピになったんじゃないか。

そうして、それがその土地あるいはその店で使い勝手の良いレシピとして受け継がれて.....
そこに代々伝わる料理やパンやお菓子になって.....
そうして、その一品がその歴史を今に蘇らせる方法になって.....
これからもずっと守るべき、様式美になる。

なんかそれって、壮大な時間軸をもったドラマだなって。



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