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相談事は本にした。

また本を買った。

読みたい、という気持ちに突き動かされているような気がするのは、ここ何年も本を読むのをやめていたからだ。

「〇〇をものすごくしたい!」という強い気持ちで臨むのはすごくワクワクする。

待ち望んだ本が届く、ページを開いてもどかしい気持ちで文字を目でなぞる。

読み進めたい気持ちを抑えて本を閉じ、眠りにつくこともあるし、我慢できずに一気に読んでしまうこともある。

もっとも、いつもいつでも本が周りに積んであって、さらに一定量読むこと自体が義務になっている場合はきっとそんなことにならなくて、
「あー、これ読んでおかないとな」っていう、あまり前向きな気持ちになれなくなってしまうのだろうから、適度な距離感、期間をもっているのが良いんだろう。

好きなことを仕事にするっていうのも、そういう問題がある。

好きなことを毎日できる、好きなものに毎日触れていられる。

だけど、それが日常になりすぎて、義務になる作業が増えた時、
やりたいことに付随してくる作業が面倒に思えてきたり、新鮮さが失われていったり、ということが起こりやすい。

それも、それは無意識に自分を包み込んでいき、気づいたら自分を侵食している、そういうものなので、意識的に自意識を更新し続けていかなければいけない....

自分で自分の仕事を創っていかなきゃいけないわけだから、
いかに新鮮さを保ち、ワクワクを産んで、時には達成感や成長を味わえるような目標みたいなものを盛り込んでいくか、そういうことがどうしても必要になってくる。

その方が積極的に前向きに、楽しく続けていけるから。

だから、長く続けているお店は
新しい食材や機材を採りいれたり、メニューをかえてみたり、珍しいものを探したり、いまあるものを突き詰めてブラッシュアップさせていったり、という工夫をするようになる。

または、そういうものを仕事以外に求めるという手もある。

仕事はきっぱりと自分の中でシステム化してしまう。
仕事以外の趣味などで、自己研鑽の体験をしたり、発散したり、楽しんだり、というようなやり方をすれば、休みを終えた翌日にはまた
「ああ!また、仕事に戻ってこられた!」と、新鮮な気持ちに戻れるってわけだ。

どっちをとるか、あるいは、どういうバランスにするか、またはそれ以外のやり方か、
それはそれぞれの性質や考え方や、抱えているものや、目指しているもの、人の数だけ、お店の数だけあるんだろう。

なんにせよ、決めるのは自分であり、だれもやり方や解決策を考えてくれるわけじゃない。
代わりに決断してくれる人もいない。
つまり、その決断に責任を持ってくれる人はいない。だから、つまるところ、だれに相談したって無駄なのだ。

じゃあ、どこかで迷いが出た時、それでいいんだと背中を押してくれるのはなんなんだ。

私は、自分の価値観や立場に近いと思われる先人の歩み方をみて、そこから考えて、迷ったら同じようにすることにしてる。

お店を始めたときも、いつか、「なんのためにやってるんだっけ」ってならないように、モデルとなる歩み方を決めておいた。

そのおかげで、こっちに行ける、いや、あっちにも行けるかも、という分岐点に立った時にも迷わず道を選択できたし、これからもそうあると思う。

今回、山の本を続けて読んでいる。
それはひとつの切り口なのであって、また次の機会には違う本を読んでいるかもしれない、というような曖昧な感じでもあるのだけど、でも、自分の気になってたこと、もやもやしてたことの答えのようなものが、確かにそこにあった。

常につぎのもの、上のもの、困難なもの、美しいもの、まだみぬものを求める人、
そうでないと生きていけない人、そういう生き方から外れることができなくなった人、
成功からの失敗や後退、第二の生き方を模索し、挑戦し続ける人、

いままで知らなかった激しい世界のことのなかに、いまもむかしも、他の世界にも通ずるような、普遍的な哲学、素朴な問いかけとそれに対する答えが綴られていたりする。

私が得た答えは、まだ話すようなものでなくて
きっと、何年か後、実際にそうしてきた、という道筋ができたときに初めて言葉にするんだと思う。
それを楽しみに、今日もまた仕事する。

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