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ほんとうのところ、という話。

もともとそれがどういうものなのかとか、
便宜的に、あるいは理由があって省略してるけど 本来の姿はこうだとか、
そういう話を昨日聞いていた。

ほんとうはこういうものである。

そういうことを知ってる人と知らない人とで
たとえば同じやり方で同じ料理を作ったとして違いが出るかといえば、
きっと、食べたひとはほとんどわからない、時々わかる人がいるかもな、くらいの違いなんではないか。

その違いがわかる人にとってはかなり大きく違って感じられると思う、
だけど、やっぱり大多数の人はわかんないんじゃないかと思う。

だから知らなくてもいいか。

知らなくてもいい気もする。

知らなきゃならない、と言ったとしても、伝わる人と伝わらない人がいる。

伝わらないからできないかというと、そうもいえない。たぶん、知らなくたってそこそこの技術はつく。

だから、その人にその方が正しいのだからそうせよ、とはいえない、のじゃないか。

人それぞれの価値観だね、と言ったらそれでおしまいの話。


むかし働いてたイタリア料理店(またでてきた)のシェフは、煮込みやパスタソースをつくるとき、ひとつまみのコンソメをいれていた。

「鶏には鶏のコンソメ、野菜には野菜の、魚介には魚介の。
ほんとはぜんぶほんものからスープを取りたいけど、この狭い厨房じゃできないから...

だから、いまはこのやり方をお前に教えているけど、これを入れる時は『ほんとはもっと美味しく作れるんだけど、お客さん、ごめんなさい』って思いながら入れるんだぞ。」
って言って、作り方を見せてくれた。

シェフという人間はよくわからなかったけど、料理もパンもおいしくて、そういう、料理に対して実直なところが好きだった。

だから、わたしも出来る限り自分で手をかけられるとこはかけたいと思うようになった。

調味料でも素材でも、処理してあるものはたくさんあって、手間を省こうとすればいくらだってできる、そういう便利な世の中なんである。

しかも、それを見てる人や咎める人がいないなら、あるいはかけられるコストが限られているとしたら、そういう方向に流れていっても仕方ないことなんである。

でも、ほんとに最後の砦として。

「ほんとうはこうじゃいけない」って思いが心の中にあって
「こうしていくべきだ」とか「こうやっていきたい」って思ってるなら....

きっと、いつかはその場所で戦うようになるんじゃないかって思ったし、
そういうのって、どこかに絶対でるよなって、
それが誰に気付かれなくても、できたものがそんなに変わらないものだとしても、
「違いがある」ってことが自分の中にあれば充分なんじゃないかって思って、
なんだか元気が出た。

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