<物書きセッション>ラブレター
物書きセッションとは。
1つのテーマに対して、複数人が匿名で記事を書く。
それに対してフィードバックをもらい、文章力を上げていく取り組み。小学生・大学生・デザイナー・経営者などなど幅広いメンバーで実施。年齢や性別、職業を取っ払って、文章だけを見て、お互いにセッションを楽しむことを大切にしている。
<今月のテーマ>
ラブレター
エントリー№1(名も無き者より)
ラブレターを書いたことがない。そして、今後も書かないだろう。ラブレターを書く状況を挙げてみると、つくづく自分には向かないことがわかる。見知らぬ相手に想いを伝えたい?面識のない相手に好意は抱かぬし、好意を持って書いたとしたらそれはファンレターであろう。身近な相手に普段は言えないことを伝える?いや、言いたいことはすぐに言えるようにしておきたい。私が思いを伝えたい相手は私のそばにいる。言葉は通じるし手も届く。愛を伝える手段ならそちらを使う。
そうは言っても、恋やラブを取り除いて考えてみるに自分の考えを言葉に表し手を動かして文字を綴るというのは有効な手段だ。本当の気持ちを探ったり思考を整理したりするのにはうってつけと言えるだろう。
現にこうしてラブレターについて考えたことを書き起こしている。ラブレターを書くことは一方的だが、奥ゆかしく純粋な行為だと思う。ゆえに私は書かない。
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【名も無き者よりさんへの講評】
この文章の面白さは、筆者が強く「自身の中でのラブレターの存在意義」を否定し続けている点にあります。
面識のない相手に好意を抱く性質ではない、だからラブレターは書かない。手の届く相手には言葉(声)で伝えたい、だからラブレターは書かない。
序盤はリズムよく否定の言葉が続きます。
とはいえ「文章を書く」という行為は尊重し、今回そうやって自分を客観視することに挑戦した筆者。
結果、筆者は「ラブレターを書くことは一方的だが、奥ゆかしく純粋な行為である」というひとつの結論を導き出します。
その上でやはり「私は書かない」とも。
このように、この文章は「強い否定〜客観視〜結論」という流れで構成されています。
その「厚み」を割合にすると、7:1:2くらいでしょうか。
そう…残念ながら、客観視と結論が「薄い」のです。
力のあるワード「ラブレターを書くことは一方的だが、奥ゆかしく純粋な行為である」が、どういう客観視を経て生まれたのか。
そして、その力を超えてなお筆者が「書かない」と思う理由は何か。
そこが知りたいのです。
筆者には、強い否定を裏返す可能性を秘めた「力を持った言葉」を生み出す才能があります。
あとはその前後をつなげるだけです。もう少しです。
(チャコペン先生)
エントリー№2(想像にふける者)
ラブレターといえば、便箋に書くラブレターを自然に想像する。でも、わたしはそれを書いている人を見たことがない。たぶん、今はそういう時代ではないのだろう。
ふと、自分がラブレターを書く時を想像してみる。思いの丈を伝えるために、「少しでも綺麗な字で書こう」とか「もっと気の利いた言い回しにしよう」と必死に考えるだろう。たぶん、ちょっとした間違いでも、几帳面な自分はきっと新しい便箋を取り出すにちがいない。書き切るだけで考えるだけで大変だ。
でも、もし完成したら、結果はどうでもよくなってしまう気がする。自分の思いを納得するまで書き綴った。それだけで満足してしまう予感がするからだ。もしその後も結果を期待しているとしたら、本当にその人のことを想っている証拠だろう。ラブレターを書くことは、何かを書きたい思いと誰かを想う気持ち、どちらなのかを自分自信に問う行為なのだ。
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【想像にふける者さんへの講評】
いつでもきちんとしていたい…筆者は真面目な長男・長女気質の方ではないでしょうか。
私もそうです。とんでもない親しみを感じます。
さて。
文章を書くことには、筆者も述べている通り「相手に何かを伝えること」と「自分の気持ち整理すること」という、二つの大きな意義があります。
ところがラブレターというものは、なりふり構わない感情の文章です。言うなれば異色の存在。
相手に私を知って欲しい!わかってほしい!見て欲しい!
鮮烈なエゴの羅列。
では、文章の意義を無視したラブレターは、醜いものなのでしょうか?
いえいえ。
ラブレターはいつどんな時も、美しいものです。
むしろ自己中心的であればあるほど、ラブレターの美しさは増すと私は思います。
どうしてでしょうか?
それは、人が人を想う気持ちは、普遍的に美しいものだからです。
ドロドロだっていい。かっこ悪くてもそこがいい。
理屈を超えたところに存在するからこそ、ラブレターは心に残るのです。
あなたも(私も)超えましょう、理屈を。
そこから始まる何かがあるはずです。
(チャコペン先生)
エントリー№3(チーズコロッケ)
華奢で小柄な祖母は、私が物心がついたときには身長180センチ以上もあるガタイのいい祖父を文字通り背負いながら生活していた。
歩けない祖父はいつも偉そうで、やれ風呂の湯が熱いだの、やれ飯が気に入らないだのと怒鳴り散らしてばかりいた。
そんな祖父の葬式で、涙1つ見せなかった祖母。
祖父が亡くなった時、可愛がってもらった私としてはとても寂しく思う一方で、これで祖母は楽になれるんじゃないか、と思った。
それから二十数年が経過した夏の夕方、一緒にドラマを見ていた祖母に「じいちゃんに会いたい?」と聞いてみた。
祖母は「じいちゃんに今の姿のまま会っても、ばあちゃんだとわかってもらえねーべなぁ。ばあちゃん年とりすぎちゃったもんなぁ。恥ずかしくてじいちゃんに悪くてなぁ。」と答えた。
ばあちゃん、
ばあちゃんは私が知っている人の中で誰よりも美しい人だよ。
じいちゃんには、会えたかい?
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【チーズコロッケさんへの講評】
それぞれの胸の中にあった愛。
相手に直接伝えることはなかったけれど、いつも大切にそこにあった。
とても優しく懐かしい、長い年月をかけて綴られた家族のラブレターです。
この文章には、語られる愛が5つ存在します。
・祖父から祖母へ向けられていた、甘えと言う名の不器用な愛。
・孫である筆者を可愛がった祖父の愛。
・祖父が亡くなった時に、祖母が「楽になれるのでは」と思った(思ってし まった)孫の愛。
・長い年月を経て祖母から語られた少女のような愛。
・そんな祖母に美しさを感じていた、孫の愛。
愛の比重をどうこう言うのはナンセンスです。
実際そんなものは存在しないと思います。
平等に書きたかった気持ちはとてもよく分かりますが、今回はどれかに光を当てることにより、全体をより深く印象づけてみてはいかがでしょうか。
この文章の場合は、長年祖母に寄り添った孫の目線を、大切にすると良いと思います。
孫がどうして、祖母のことを「誰よりも美しい人」だと思っていたのか?
そこを掘り下げていくことで、祖母の人となり、祖父と祖母の間に存在した想い、
繋がっていく家族の絆などが見えてくるのではないでしょうか。
じいちゃんとばあちゃんはきっと会えたでしょう。
誰よりも大切な孫が、二人の人生を深く想い、文章によって紡いだのですから。
(チャコペン先生)
エントリー№4(ういうい)
嬉しいことも、悲しいことも、悔しいことも、楽しいことも。
あなたは、なにより先に私のもとへ駆けつけて話してくれたのに。
こんなに嬉しいことなのに、もう私には教えてくれないんだね。
それは正しい成長なのだと分かっている。
でも、なんだろう。この気持ちは。
嬉しく、ほほえましく、誇らしく、切なく、寂しい。
これが親心というものなのか。
息子の卒園式の日に小さなバックから見つけた小さな小さなラブレター。
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【ういういさんへの講評】
まだまだ幼いと思っていた我が子から、ふと垣間見えた外の世界。
心に浮かんだ複雑な思いを書き綴ったこの文章もまた、
あなたから息子さんへのラブレターなのでしょう。
『わたしが心を砕いて愛し、そこに無上の愛を返してくれたあなたが、
いずれ他の誰かを愛し、愛される別の道へと旅立って行く』
でもそれは、きっと何よりも幸せなこと。
子育ては永遠の両思いであり、片思いなのかも知れません。
(チャコペン先生)
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