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異常

パンツ洗ってください事件は、私が図書館の男子トイレに駆け込んだことから始まる。

目が悪い私から見える世界はぼやけていて、男子トイレと女子トイレの入り口を間違えてしまったのだ。
男子トイレの入り口から入ったときに、洗面台で手を洗っていた子の落し物に気づかず、私はそれを踏んでしまった。
けれど、私は踏んだことに気付かなかったふりをして、無視をした。踏まれたその子もどうせ気がついていないだろうと思ったのだ。
ところが、どうやらそれは私の勘違いであったらしい。

図書館の出口を出ようとしたところで、私は後ろから声をかけられた。
振り返る前に肩をぐいと捕まれ、至近距離で大声で怒鳴られる。
初めはよくわからずただ混乱していた私も、やがてその内容を理解する。私が落し物を踏んだことを怒っているのだ。

同時に、怒鳴られながら冷静に状況を客観視している自分がいる。貸出窓口のお姉さんから見たら、これはただの変態に絡まれる女の子の図だろうなとぼんやりと考えるのだ。

とはいえ、もとはといえば私が落とし物を踏んだのが悪いのであって、お金で弁償してもよかったのだけれど。
でも、しっかり洗ってほしいというから、それならいいと思ったんだ。
1日待っていて、明日返すからと言って、私はそれを洗うために外に出た。

はたして、私はその子のことを男の子だと思っていた。男子トイレにいたからだ。
でももしかするとそれは本当は女の子だったのかもしれない。
パンツにはしみがついていて、私と同じだったから。

———

図書館のとなりには廃館がある。元は小学校か何かだったのだろう、3階建ての大きな建物だ。
そして、そこには一人の男の子が住んでおり、私は彼のところに居候をしている。
廃館の外には、庭とも呼べないただの駐車場のようなスペースには水道がある。洗濯をする時にはいつも使っている場所だ。
そこで私がパンツを洗おうとしたちょうどそのとき、タイミングよく彼は現れた。
いや、本当は、彼がそろそろ帰ってくるタイミングだと踏んでここで待っていたのは、私の方なのだが。

背が高くて天然パーマのシルエット。それは彼のものであり、見間違いようはなかった。
彼は客観的にみても整っている顔立ちをしていた。天然パーマの黒髪の、長く伸びた前髪の陰からのぞく目には野性的な光を宿している。
そして、彼の細くて筋肉質の腕には大量の洗濯物が抱かれている。

「主夫ビジネスにも、そろそろ慣れた?」

私は彼に声をかける。

「ああ、これもなかなかいい商売になるよ」

と彼は言う。
彼は主夫として、いろいろな家庭の家事を受け持っているのだ。
彼はそうして生計を立てている。

「理有こそ、どうしたの?」

「ちょっと、洗濯物があってね」

ふうん、と言って彼は洗い物を始める。私もその横でパンツを洗う。

廃館に住んでいるのは、私と彼だけではない。不思議な人たちがひとり、ひとりと住み着いていくのだ。
それは彼が保護していくからであり、かくいう私もまた、その保護されたうちの一人だった。

洗濯物を洗い終わって、物干しに干すと、私は廃館の二階に上がった。先週住み着いたばかりの異宗教の家族が、薄暗い部屋の中で一台のテレビを囲んでいる。
ぼんやりとした音声、のっぺりとした映像。
そこでは「となりのあっこちゃん」というテレビ番組が流れていた。
理有も知っている。それはカンボジアから転校してくる女の子のストーリーだ。

ああ、そんなドラマあったな、と思う私は既視感を覚える。顔をしかめる私をじらすように、脳はゆっくりとその答えをあらわにする。
目の前の異宗教の家族の姿。そして、三階に住んでいる難民の母娘。
そうだったのだ、と私は知る。
異国から転校してくる家族は遠くの物語の話ではなくて、今目の前の、この廃館の中で起きていることだった。

夕飯を作ろうとして、二階のキッチンに向かったところで、私はふとキッチンが妙に薄暗く、何日も使われていないような空気がただよっていることに気が付いた。入り口は板でふさいであり、保存食を取りに行くこともできない。

「どういうこと!?」

私は大声で彼の名を呼び、キッチンが使えないことを声高に非難した。
これでは、私の役割である、この廃館に住むみんなの料理を作ることができない。

「異常が見つかったから封鎖したんだ」

私の要件を聞いた彼は私の方を見もせずに、なんということもないという調子で言う。

「食べるものなら一階にあるじゃないか。あれを持ってきて火であぶればいい」

彼の主張は正しかった。
実際、彼が異常だというのであれば、そこにはもう何人たりとも足を踏み入れることはできない。特にそれが今回のように、人の口に入る食べ物であるならば、なおさら慎重になる必要があった。
もう、あのキッチンにおいてあるものは、調味料ひとつでさえ使うことは許されなかった。
だが幸運なことに、今この廃館には、ここに住む全員のお腹を満たすことができる食料がある。
一階にあるもの。それは巨大な肉の塊だ。

私は一階の広間に下りていくと、巨大な肉の塊の上にのぼった。
巨大な肉の塊、というのがどれくらいの大きさかって?
それは登ることができるほどの肉の山だ。
一階の広間の半分を埋めつくすほどの大きさのそれ。それの正体を知ろうとは、誰も思わない。
ただ、ある晩、結界を越えてきた怪物がいて、それを彼が倒した。そして次の日にはここに巨大な肉の塊が存在していた。それだけだ。

何の肉なのかは不明だが、ただ、栄養満点でとてもおいしいという点においては、これに勝る肉はなかった。そもそも、この肉はこの世のものではないのかもしれない。
肉はまだ当分は保つだろう。
私は肉の上にしゃがみ、自分の体の半分くらいの大きさを切り取ると、それを担いで二階に上がった。
これで当分のみんなの食料の心配はいらない。
私は安堵した。

———

ところが、次の日にはさらに大きな事件が起きるのである。

「おい、これを見ろよ」

彼が示している虫眼鏡の先を、仲間たちがみんなで頭を寄せ合って覗き込む。
虫眼鏡の先には、小さな微生物のようなものが映っていた。それは、黄色と黒の不思議な模様の甲羅を背負った、鹿のような亀のような、とにかく奇妙な見た目の生き物だった。

「向きが逆だ」

彼の指摘に、私はハッとする。確かにいつも彼が見せる微生物のようなものは左向きだった。しかし、この生き物は右を向いているのである。

この微生物のような何かはいつも私たちの住んでいる世界に当たり前のようにいて、でも彼に指摘されないと見えない、隠れた層に住んでいるものだった。

これは何を示唆しているのか?
それを知っているのは彼だけだ。
けれど、何かしらの異常が起きているようだということは、彼の全身から発されている緊張感から、その場にいる全員が感じ取っていた。

バタン!

扉が勢い良く空いて、男がひとり、その部屋に飛び込んできた。手には二匹のネズミをぶら下げていた。

「ネズミが死んだ」

男はこの廃館の北の隅の部屋で、ネズミを多数飼っていた。そのうち二匹が今朝突然痙攣しながら死んだのだという。

男から二匹のネズミを受け取った彼は、男から、その死に方の経緯を聞き、硬直しているネズミの全身をくまなく調べた。
部屋にいる全員が息を詰めて、彼の次の言葉を待つ。

「・・・やはり、異常か」

彼はただ一言、それだけを言って、部屋を出て行った。

私はあわてて立ち上がると、彼の後を追う。彼はまっすぐに書斎に向かった。
ネズミの死の原因について、もしくは微生物の異常について調べるのだろう。

彼は埃っぽい部屋の中で、分厚い本の山の中に埋もれていた。

「ここにある本だけでは分からない」

大学図書館に行こうと彼は言う。
その横顔には、焦燥感と緊張感が、ぴんと張った糸のように張り詰めている。

———

大学の壁は白かった。建て替えられたばかりの白い校舎。
光の入り方まで計算されたその美しい階段を、彼は私をおぶって飛ぶように駆け上がる。
一刻を焦る事態なのだということを、私も彼の背中で知る。

彼は大学図書館の書籍をひっくり返した後、教授のいる研究室の扉を引っこ抜く勢いで叩く。

ネズミを調べると、そのうちの二匹に異常が見つかった。
それも、生物の研究を一生をかけて行う学者でも、一生に一度お目にかかれるかと言う、そんな希少な事例なのだという。
それが今回、同時に二匹に見つかったのだ。

そして、鹿と亀を掛け合わせたような微生物の向きが逆であったこと。
こんなことは、これまでに一度もなかったことなのだ。
どんな書籍からも、そんなことが過去に起きたという事実は認められなった。

彼は著名な本たちに書かれていたことを列挙していく。

そしてついにそれがこの世界の仕組みから揺るがしかねない異常であることの確信を得ると、彼は絶望に飲み込まれた顔をする。

「世界に異常が起きてる、そのシルシなんだ」

私を背負って飛ぶように登った階段を、今度は逆に落ちていく。
スローモーション。彼と私が落ちるのと一緒に、著名な本たちが何冊も落ちていく。
白い階段。

———

一番下まで落ちると、そこは地下だ。
私と彼は人混みの中を奥へ奥へと進んでいった。人混みはライブ会場の出入り口のように混んでいて、人々の熱とざわめきで混沌としている。
ノースリーブにキャップ姿の私は、彼を見失わないようにとひたすらその背を追う。

人混みを奥に進んでいくと、入り口よりは少し開けた場所の薄暗い一角に、仲間たちが待っていた。
彼らは絵の具を使って、何かポスターのような大きな絵を描いている。
私たちは彼らのそばに行き、とりあえずの居場所を得る。

ほっと一息ついた私と同様に、彼も気が抜けたのだろうか。彼は自分を支えるのすら難しいほどの疲労感に押しつぶされ、私にしがみつく。

そこで、ふと私は気づいてしまうのだ。
私たちはずっと友達で、一線があって、絶対に踏み越えてこなかった。けれど、彼は私のことが好きだ。ずっと前から、好きだ。
私の気配を察したように、彼が乾いた唇を私に押し付ける。
仲間たちが瞳を伏せ、そそくさと別の場所へと移動を始める。

水色の絵の具。仲間たちが書いていたポスターの色が、なぜか強烈に私の目に飛び込んでくる。

そう、彼は天才的な頭脳と異世界へアクセスする力を持っている。そんな頭脳と力を持つ者の宿命として、彼は今も、一人で世界の異常と闘っている。

彼に後ろから抱きしめられながら、私は濡れていた。
彼とは同じ屋根の下に住み、同じプロジェクトに関わってきた。親友であり、戦友であった。その彼が今、目の前で崩れそうになっている。拠り所を探している。
彼が私を求めているのなら、私が彼に応えてもいいだろう?

後ろからぴったりと抱きつかれて、私を背中から抱きしめていた手が、私の胸を弄る。繋いだ右手は求めるように、何度も握りしめてはだだをこねるように揺れる。
私の首元に荒い息が当たって、至近距離に追い求めていた顔がある。
乾いた唇。口づけをする。味はない。
乾いてがさがさになった唇と、ぬるい吐息。
彼の不安を飲み込んで、せめて一緒に共有したい。
体が反応して、ひざの力が抜けていくのがわかる。
胸を弄られ、
私の背中に固いものが押し当てられている。

———

溺れそうな感覚の中で、どこか私は冷静に、そういうことか、と気がつく。
この世界の現状は、となりのあっこちゃんと同じなのだ。

紛れ込んだ一人の転校生は脅威だ。
その転校生が小さな変化を運んできて、やがてそれが波となり、大きな変化となり世界を壊して行く。
否応なく流れ込んで行く何かがあって、じわじわと生活を根底から変えて行くのだ。

先ほどの大勢の人混みの中。
変化の中に立たされて、ふと顔を上げてまわりを見れば、異常に気がつくはずだ。

座敷わらしが、随分と増えている。

彼らは、もしくは、彼らの目的のために、何かを成そうとしているのかもしれない。
けれどそれは幕の向こうの出来事で、私たちにはそれを伺い知ることはできない。

私に抱きつく彼の肩。その向こうに、どこかで見知った人と目が合う。
昨日、私は図書館でパンツを踏んづけた。その手にはパンツが握られている。私が洗って、今も廃館に干してあるはずのそれ。

「今日、返してくれる約束だったよね?」

その瞬間、そのパンツこそが異常の根源だったのだと私は知る。

座敷わらしは私たちを見ている。いや、私を見ている。
その存在を認識した時、それはきっと、もうすでに手遅れなのだろう。

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