『酒場にて』#25

その日、アイリーン・ヴィシャスは、祖父に頼まれた用事を済ませ、夕日に染まる荒野の中、馬を連れ、荷車を引き、愛すべき我が家への道を歩いていた。
アイリーンは、ヴィシャスという姓からは想像つかないほどに美しく、可憐な少女だった。
紅の荒野を馬と共に歩く、色白の少女。
それはきっと、とても絵になる光景だったであろう。

アイリーンは、祖父と二人で暮らしていた。
兄弟や姉妹はなく、両親は、数年前に姿を消した。
恐らく、野党や野犬に襲われたのだろう。
文明崩壊の原因となった、ターンド・オフ以降では、珍しくもない話しだ。
しかし、それでも彼女は、祖父とともに、逞しく、懸命に生きていた。

こんな時代では、満ち足りるということはない。
朝起きてパンを食べ、昼は農場で麦や野菜を育てる。
夕方になれば、祖父とともにパンを焼き、焼きたてのパンを食べながら、祖父と語り合う。
そして夜は、温かいベッドで眠る。
三日に一度は、祖父お手製のシャワーを浴びることもできる。
それだけで、充分幸せだった。

その日は、三日に一度の水汲みの日だった。
いつもは、水汲みは祖父とアイリーンの二人で行う。
しかし、その日、祖父は体調を崩していた。
だから、アイリーンが一人での水汲みを買って出た。
祖父は、「念のために持っておけ」と、猟銃と、拳銃をアイリーンに持たせてくれた。
しかし、祖父は念を押すようにこうも言った。
「これを使うような時は、走って逃げるんだ」と。
そして祖父は、最近、東の方から流れて来た人達が酒場を開いたらしいという話も聞かせてくれた。
とはいえ、水汲みに使うマウンテンビューの湖までは、ほぼ何もない一本道で、危険があるとすれば、それは野犬程度のものだった。
その酒場だって、近付かなければ危険はないだろう。
そんな風に考えながら、アイリーンは、もう一人の家族である、馬のキトゥンを引いて農場を後にした。

キトゥンは、その名の通り、子猫のように臆病な馬だ。
しかし、その分、気性は穏やかで、いつも優しい目をして、アイリーンと祖父を見つめている。
時には、アイリーンの話しをじっくりと聞いていてくれることもある。
だから、キトゥンは、アイリーンにとって、姉妹のようであり、母のようでもある、大切な存在だった。

農場を出たアイリーンとキトゥンは、ヤーモ・ロードを西へと歩き出した。
キトゥンの蹄の音とともに、その背に提げた樽や桶も、ガラゴロと音を立てる。
アイリーン自身も、麦や野菜を載せた荷車を引いていた。
マウンテンビューの湖畔には集落がある。
アイリーンが引く荷車の荷は、そこの人々へのおすそわけだ。

農場から、マウンテンビューの湖までは、徒歩で1時間ほどかかる。
マウンテンビューまでの道程を、アイリーンは、キトゥンに話しかけながら歩いた。
日々の暮らしのこと、農場から見える星空のこと、そして、キトゥンとの思い出の数々。
キトゥンは、返事こそしてはくれないが、アイリーンが話し出すと、アイリーンの目を優しく見つめ、そして、時折、相槌を打つかのように鼻を鳴らした。

そうこうするうちに、アイリーンとキトゥンは、マウンテンビューへと辿り着いた。
途中、祖父から聞いた酒場が遠くに見えたが、何が起きるということもなかった。

マウンテンビューは、その昔、湖畔のリゾートだったらしい。
リゾートと言っても、観光地というほどではなく、湖を囲うように、背の低い建物が立ち並んでいるだけの土地だ。
しかし、現在、この渇いた土地での湖の恩恵は大きく、どこからともなく人々が寄り集まり、ちょっとした集落となっていた。
アイリーンと祖父は、三日に一度ここを訪れ、水を汲ませてもらう代わりに、農場で採れた野菜や麦などをおすそわけすることで、集落の人々と、良好な関係を築いていた。

マウンテンビューに着いたアイリーンは、顔馴染みの人々とおしゃべりをしながら水を汲み、野菜や麦を配り歩いた。
三日に一度の水汲みは、狭い世界で暮らすアイリーンにとって、世間と交われる唯一の機会であり、心踊る一時だった。
愛想がよく聡明なアイリーンは、集落の人達から好かれていたので、帰りは、荷車に乗り切らないほどの食料や物資を積んでいることも珍しくなかった。

その日も、アイリーンは溢れんばかりの荷物を積んで、マウンテンビューを後にした——。

帰り道、アイリーンは集落の人々から得た情報や小話をキトゥンに話しながら歩いた。
日は大分傾き、夕陽の赤が優しく二人を包む。

しばらく歩き、夕暮れが夕闇に変わるころ、アイリーンは、明かりの灯る建物を目にした。
例の酒場だ。
酒場の前には、馬が数頭繋がれている。
無論、話し声が聞こえるような距離ではなかったが、アイリーンには、店内の話し声が聞こえたような気がした。
その時、ふいに店の扉が開き、千鳥足の男が出てきた。
男は、よたよたとした足取りで店の側面に回り込み、用を足し始める。
鼻歌でも唄っているのか、ご機嫌な様子で空を見上げる男。
アイリーンは、その様子を見ながら、思わず、立ち止まってしまう。

これが、不幸の始まりだった。

次の瞬間、用を足し終えた男とアイリーンの目が合ってしまった。
一瞬の静寂と緊張が走る。
まず最初に、男が口を開き、何事か叫んだ。
アイリーンはまだ動かない。
しかし、キトゥンは素早く反応し、アイリーンの服の袖を噛み、引っ張った。
次に、店から次々と男達が現れた。
それぞれに何か喚きながら走って来る。
中には、馬に跨る者もいる。
そこへ来て、初めてアイリーンは駆け出した。
本能的な恐怖。
何が起こったのか、それはまだわからない。
何が起こるのか、それすらも知らない。
しかし、アイリーンは直感した。
このままでは、酷いことになると。
アイリーンは、キトゥンに引かれるがままに走り出す。
しかし、荷車が重く、思うように走れない。
それは、大量の荷物を背負ったキトゥンも同じだった。
——荷は諦めるしかない。
アイリーンは、荷車を捨て、走りながら、キトゥンの背の荷物を外しにかかった。
しかし、走りながらでおぼつかない手元と焦りのせいで、上手く荷物を外せない。
振り返れば、馬に跨った男が、すでにすぐそこまで迫っていた。
祈るような気持ちで最後の鎖を外すと、荷物は派手な音を立ててあちこちに散乱した。
それと同時に、己が身が軽くなったことを悟ったキトゥンは、アイリーンの襟首を噛み、背に乗せた。
そして、アイリーンが背中にしっかり掴まったのを感じ取り、一気に加速する。
キトゥンは、駆けに駆けた。
馬の持つ本能のままに、迫り来る捕食者達から逃げ延びるために。
アイリーンは、再度後ろを振り返る。
男達との距離が、段々と広がっていく。
何人かの男は、アイリーンが捨て去った物資や食料、水を物色しようと手を伸ばしていた。

その時、何かが光った。

続いて、頬をかすめる熱い感覚と、鼓膜を震わす破裂音。
その音と同時に、聞きなれた声がアイリーンの耳に届いた。
そう、キトゥンのいななきだ。
その声に、何事かとキトゥンを振り返るアイリーン。
しかし、アイリーンが振り返るよりも早く、凄まじい衝撃が彼女を襲った。
一瞬の浮遊感のあと、視界を一瞬、見慣れた背中がよぎる。
続けざまに、二度目の衝撃。
今度は、何かに叩きつけられた。
少しして、それが地面だと理解する。
立ち上がれないほどの痛みに耐えつつ、視線を動かす。
そこに、赤い液体の筋が見えた。
その筋を辿る。
その先には——。

「キトゥン!!」

アイリーンは叫んでいた。
キトゥンの首にいびつな穴が開き、そこから血が溢れ出ている。
かろうじて息はしているようだが、長くは保たない。そう感じさせるほどの傷痕だった。
しかし、それだけの出血をしながらも、キトゥンはアイリーンの叫びに反応し、首を回してアイリーンを見つめた。
その目は、今までアイリーンが見たこともないほど、悲しい色をしている。
それは、死への恐怖や、痛みへの苦痛ではない。家族を守れないことへの自責と、この後起こるであろう悲劇への悲痛だった。
アイリーンは、激痛に耐えながら、キトゥンへと這っていく。
キトゥンの鼻を撫で、その悲しみを和らげるために。

——しかし、アイリーンの手がキトゥンに届くことはなかった。

「楽しくヤろうぜ、お嬢ちゃん」

こうして、幼く純粋な少女は地獄へと連れ去られた。

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