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青空

 勢い良く乾杯を交わしたような音がして、私は目が覚めた。  

 後ろに目をやると、野球帽をかぶった少年が、バスに乗り込んできたところだった。 

 発券された整理券を大事そうに握り、どの席に座ろうかときょろきょろしている。 

 しばらくそうしたあと、少年は、後ろの方の席に、ちょこんと腰をかけた。

 その様子は、どこか居心地が悪そうだ。 

 きっと、バスに慣れていないのだろう。

「発車します」

 少年が座ったのを見計らい、バスは動き出す。 

 どこまでも続く防波堤。その向こう側に広がる、空と海。  

 雲ひとつない空と、凪いだ穏やかな海との境界は曖昧で、そこにあるのは、ただただ、ひたすらの青だった。 

 本当は、空と海との間に境界などないのではないか。  

 そんな風に思えてくるほどの青に、しばし見とれる。  

 耳に入ってくるのは、低いエンジン音だけ。 

 見事なまでの青と、無粋なエンジン音。 

 そのアンバランスさが妙に心地よく、いつの間にか、私は再びまどろみの中にいた。 

 どれほどの間、そうしていたろうか。  

 運賃の切り替えを案内する声で、私は我に帰った。  

 手元の整理券と、運賃表示器とを見比べる。初乗り運賃で行ける区間は、とうの昔に過ぎている。


 思えば、遠くへ来たものだ。


 そんな感想を持つと同時に、私は、ふと疑問を感じた。  

 私は、どこへ向かっているのだったか。 

 そして、このバスはどこへ向かっているのだろうか。  

 そもそも、私はどのようにしてバスに乗ったのだったろうか。  

 全ての記憶は、車窓を流れる青のように、曖昧だった。 

 行き先がわからない。 

 しかし、バスは走り続けている。  

 降りたほうがいいのだろうか。

「どちらまで、行かれるのですかな?」

 急に声をかけられた。 

 振り返ると、老人が一人、こちらを見つめている。  

 あまりに唐突な問いかけに、私は、「なぜ?」と問いかけ返していた。  

「いえいえ、私は、あなたがこのバスに乗ってきたところを見ていたので、なんとも気にかかりましてな」 

 つまり、この老人は、私よりも長くこのバスに揺られているということか。

「ええ、ええ。そうですとも」 

 だとすると、この老人もかなり遠くまで来ているのだろう。 

 どこまで行くつもりなのか。 

「それは、決めていないのですよ。それにですな、恥ずかしながら、私は、このバスがどこへ向かっているのかも知らないのです。ええ、知らないのですとも」 

 なるほど、私と同じようなものなのか。

 私は、妙に納得する。 

  しかし、それで、不安ではないのだろうか。 

「それはですな、ええ、不安な時分もありましたよ。ええ、ええ。しかしですな、いつの頃からか、これはこれで良いのかもしれないと思うようになったのですよ。ええ」  

 降りる場所も決めず、行き先もわからず、ただバスに揺られることが良いことなのだろうか。  

「ええ、まあ、良くはないのかもしれませんな。けれど、面白いと思うのですよ。ええ。どこへ行くかはわからないですがね、ですが、知らない場所へは行けるのです。どこかへは行けるのです。それは、面白いですよ、ええ」 

 その言葉に、なぜか、胸が軽くなる思いがした。 

 そこで私は、ちょっとした質問を投げかけた。 

 なぜ、私に気をかけたのか。 

 私は、老人など気にも留めなかったというのに。 

「それはですな、ええ。簡単なのですよ。バスに乗っている者は、バスに乗ってきた者が気になるものなのです、ええ。現にあなたも、あの少年を見ていたではないですか。気にかけていたではないですか」 

 言われてみれば、確かにそうだ。 

 私は、途中からバスに乗ってきた見ず知らずの少年を気にかけていた。  

「そういうものなのです。ええ」 

 そこで会話が途切れ、私達は、車窓から、青を眺める。 

 心なしか、その青は先ほどまでよりもあたたかく感じられた。 

 穏やかな時間が流れる。

「そろそろ、いいかもしれませんな」

 ふと、私に声をかけたのと同じ唐突さで、老人がつぶやいた。 

 振り返ると、老人は、降車ブザーに指を伸ばしたところだった。

「次、止まります」

 思わず、私は問いかけていた。 

 もう、降りてしまうのですか? これから先も、まだ知らない景色がありますよ、と。 

 すると、老人は答える。  

「ええ、ええ、そうでしょうな。でも、それはあなたが見る景色なのです。私は、ここでいいのです。私は、ここがいいのです」  

 体に、重力を感じる。重力は、だんだんと強くなる。  

 その重さと比例するように、車窓を流れる青がゆっくりになり、やがて、止まる。 

 空気の抜ける音がして、バスの扉が開いた。  

 老人は、すっと立ち上がり、軽く身だしなみを整え、私に会釈した。  

「さようなら、なのです」 

 私は、老人に軽く手を振る。  

 老人は微笑み、歩きだした。  

 運賃箱に路銀を入れ、運転手に会釈し、ステップに立つ。
 
「なんとも綺麗な、青じゃあないか」

 誰にともなくつぶやくと、老人はゆったりとした足取りで、青の中に降り立った。 

 しばしの間があり、バスが動き出す。  

 振り返ると、老人はもう、いなかった。 

 私は、視線を前に戻す。 

 そこには、老人が見たことのない景色が広がっている。  

 さて、どこまで行こうか。 

 私は、老人が見たことのない景色を、たっぷり見ることを心に誓う。  

 どこへ行くかは分からない。  

 バスは走り続ける。 

 眩しいほど、青い空の真下で。



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