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When you came into my life.

 ライン川のほとりにある、薄暗いパブ。
 『狼の腹の中』と名付けられた店に、私と彼は来ていた。
 結婚五年目。
 喧嘩もするし、お金だって満足するほどではない。
 主人と私の生活リズムの違いのせいで、子供だってまだいない。
 だから、順風満帆とまではいかない。
 けれど、それでも慎ましく夫婦をやれている、と私は思う。
 五年間、頑張ったよね、二人とも。
 そのご褒美として、少しずつ少しずつへそくりをし、そして、ささやかな贅沢を味わうたうため、ドイツ旅行へ出かけた。
 今日はその最後の夜。
「ピルスナーを呑みながら、僕達のこれまでと、これからを語り合おう」
 彼がそんなことを言うから、こんなお店に入った。
 外装の怪しさと、その気持ち悪いネーミングから、「普段の私なら、絶対に入らないだろうな」なんて思いながら扉をくぐった。
 けれど、なかなかどうして、内装は可愛らしい。
 板チョコみたいな壁に、赤い頭巾をかぶったウェイトレス。生演奏を手がける四人組は、それぞれ、ロバ、イヌ、ネコ、ニワトリに扮している。
「なんだか、メルヘンの見本市みたいね」
 なんて感想を漏らしたほどだ。
「そうだろ? 地元の人に聞いて見つけたんだ」
 主人は、得意げに言いながら、仔牛のカツレツを頬張り、ビールを流し込む。
 子供のような笑顔を見ながら、「可愛い奴め」と思いつつも、同時に、おぞましさも感じる。

 主人と私は、大学の音楽サークルで知り合った。
 はじめの頃は、あまり話したりもしなかったと思う。
 けれど、学園祭の打ち上げの時、彼が、マイケル・シェンカーについて熱く語っているのを聞き、思わず私は食いついた。
 そして、「スコーピオンズ」がどうだ「ツェップ」がなんだと話しているうちに親しくなり、そして、こうなった。
 だから、私達の趣味はほぼ一致している。それに、私は彼を尊敬しているし、彼は私を愛している。
 あまり機会には恵まれていないけれど、体の相性だって、悪くない。
 まさに、理想の旦那だ。

 けれど、どんなに理想の旦那にでも、不満はある。
 贅沢なことだけれど。
 でも、この旅行中、それはあまりにも目についた。
「あなたさ、いつも思うんだけど、よくそんなもの食べられるよね」
 彼は、フォークで刺した豚の腸詰めを見つめながら、きょとんとする。
「美味しいよ、これ」
 そう言いながら、フォークを差し出してくる。
「やめてよ、もう」
 私が拒否すると、彼は笑った。
「君さ、いつも思うんだけれど、よく肉なしで生きていられるよね」
 言ってから、彼は腸詰めを口に運んだ。
 腸の膜が破れる、パリっという音が耳障りだった。
 その音を追い出すように、目の前にある、茄子の酢漬けを口に入れた。
 キュッキュッという音が心地いい。
 そう、私は肉が食べられない。
 おまけに、魚も食べられない。
 アレルギーってわけじゃないし、宗教上の理由でもない。
 まあ、どちらかと言えば、宗教上の理由に似ているけれど。
 私は、生き物の命を奪い、それを食べるという行為におぞましさを感じるのだ。
 彼が口にしている豚くんが、何日か、何週間か前までは、平和に暮らしていたのを思うと、とても、それを食べる気にはならない。
 まして、豚くんは、それまで自分を養ってくれている家族だと思っていた人に殺され、体中の肉をぐちゃぐちゃにすり潰され、さらに、それを自分の腸に詰められ、焼かれたのだ。
 これを人間に置き換えれば、あっという間に猟奇殺人事件の出来上がりではないか。

『繰り返される腸詰め殺人。身内の人間による犯行か』

 そんな見出しが新聞の一面に踊るのが目に見えるようだ。
 私がそう言うと、さすがに彼もフォークを止めた。
「……それは確かにエグイ」
「でしょ」
 きっと、私はしたり顔をしている。
 けれど、そんな私を尻目に、彼は、またしても豚の腸詰を口に放り込んだ。
 豚くんは、「ああ、俺、またすり潰されるんだ」なんて思っているに違いない。
「あなたねぇ」
 彼は、豚くんをひとしきり咀嚼したあと、飲み込んだ。
 さようなら、豚くん。
「うん、それは確かにエグイね。でもさ、君の食べてるそれだって、似たようなもんじゃないか?」
 彼は、茄子の酢漬けをフォークで刺した。
 そして、それをしげしげと眺める。
「家族だと思ってた人に、いきなり刈り取られて」
 茄子に入った切れ込みを指さす。
 切れ込みには、赤ピーマンが挟まれ、そして、爪楊枝で止めてある。
 スペインから渡ってきた酢漬けの作法らしい。
「尻から腹までナイフ入れられて、そこに、むりやり他人の体挟まされて、とどめに爪楊枝まで刺されちゃってさ」
 そこまで言うと、彼は、猟奇的な酢漬けを噛み、爪楊枝を引き抜いた。
「エグイことこの上ない」
 キュッキュッと音が鳴る。
 私も一つ頬張った。
 口の中で、キュッキュッと音を立てる。
「でも、茄子は生きてないじゃない」
 彼は、私にフォークを向けた。
「その理屈はおかしい」
 私は、ビールを一口すすり、彼に詰め寄る。
「なんでよ。生きてないでしょ、これ」
 頬張る。キュッキュッ。
「それはソーセージだって同じだよ。もう生きてない」
「でも、もとは豚くんだものね」
 冗談交じりに、ブーブーと鳴いてみせる。
 彼は、私に向けていたフォークを茄子に突きつけ、
「これだって、もともとは茄子だ。茄子くんだ。茄子の与一くんだ」
 と言った。
 何をムキになっているのやら。
 可愛い奴め。
「意味わからない」
「だからさ、食べるってことは、つまり、命を奪うことなんだって言いたいんだよ。それは、肉でも野菜でも変わらない」
 彼は、右手で茄子を、左手で豚の腸詰を持ち、私の目の前に突き出す。
「でも、茄子は動かないでしょ。それに、鳴かない。だから、生き物じゃない。つまり、かわいそうじゃないの。私は、生き物を殺さずに生きていくの。ガンジーよ、ガンジー。無血人生」
 彼から茄子を奪い取り、食べる。
 キュッキュッ。
 心地いい。
「ガンジーだって、肉は食べたさ」
 そう言い、彼がふくれっ面をしたところで、私は急にもよおした。
 少し、飲みすぎたかもしれない。
「トイレ。ガンジー、トイレ。無血人生は立派だけど、無尿人生は辛い」
 自分でも意味が分からないなと思いつつ、席を立つ。
 ちょっとふらついた。
 酔っているのかもしれない。
 彼の「こけるなよ」という声を背に、トイレへと歩き出す。
 トイレへ行くまでの間、それぞれのテーブルが目に入った。
 誰も彼もが肉を食べている。
 さすが肉料理の国だ。
 罪深き者達め。
 私の心は、すっかりガンジーになりきっていた。
 ガンジーがそんなことを言っていたかどうかは知らないけれど。
 厨房を通り過ぎ、トイレの扉が目に入った。
 しかし、そこで私は立ち止まる。
 目の端に、何か、妙なものを見た気がしたのだ。
 一歩二歩と歩みを戻し、厨房を覗き込んだ。
 壁という壁に、豚の腸詰が引っさげられている。
 油染みやら、肉汁やらであちこち汚れたエプロンを着た男達が、せわしなく動き回っている。
 その内の一人に注目する。
 彼の目の前には、茄子の酢漬けが入った瓶が並んでいる。
 どうやら、新たな酢漬けを仕込んでいるらしい。
 私の視線は、彼の手元に集中する。
 右手に包丁を持ち、左手で茄子を抑えている。
 何かがおかしい。
 心がざわつく。
 彼の左手をよく見る。
 彼の抑えている茄子をよく見る。
 ころころとして、斬りづらそうだ。

 いや、違う。

 ——もぞもぞとして、切りづらそうだ。

 ——茄子が、身をくねらせている。
 
 酔いが一気に覚めていくのが分かった。
 私は、はっきりとした視界でそれを捉える。
 もぞもぞ、もぞもぞと動く茄子。
 その茄子に、包丁が入れられる。
 茄子は、キュッキュッと

 ——鳴いた。

・あとがきのようなもの

mixi時代の過去作です。
なんと(?)、このお話の元ネタは、『不思議の海のナディア』です。
劇中、ヒロインであるナディアは、生き物を殺してまで生きたくないという理由から、あらゆる肉、魚を食べません。
でも、このお話の中にもある通り、食べるということは、他の生き物を殺すということ。それは、肉だろうが魚だろうが、野菜だろうが関係ありません。
そんなことを考えながら書きました。

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