小説 雨あがりの博物館 3

隣の像も薬師如来像。ライトに照らされた横顔にどんどん近づいていく。横顔は穏やかに微笑んでいるように見えたが、正面で対面すると、それは泣き出してしまいそうな優しい微笑みだった。


そのお顔には、以前お世話になった保育園の園長先生が浮かんできた。

「もし怪我でもしたらどうしますか?予めA君とBちゃんは離して養育すべきですよ。」
ある職員が言った。
「でも、そもそも私たちがこの園を創るときに掲げたことは、差別のない世の中を作れる子供達を育てること。健常児と障害児を一緒に養育して、他の幼稚園で入園を断られた子も、この園では全て引き受けていく、それが私たちの理念。この園をに入ってくる親御さんは、どなたも理解してくれています。保育者がしっかり監督していれば、きっと大丈夫。大丈夫だからお願い。」
園長先生が他の職員達をなだめる。
「でも、このままだと、いつ怪我するか分かりませんよ。責任取れますか。」
「そうですよ。私は怖いですよ。」
園長以外の職員は、示し合わせたように園長の説得に誰一人耳を貸さない。
「私が責任は取るから。障害の有無も種類も程度も月齢もみんな違子供達が理解し合っていくには、一緒に遊んだり触れ合わせないと。喧嘩することもあるでしょう。怪我もすることもあるかも知れない。でもね、人間ってそんな事もないと相手のことなんて理解できるようにならないんじゃないかな。大規模な園なら出来ないかもしれない。でも、小規模の私達だからこそ出来る保育があるでしょう。」
「実際は大変ですよ。」
開園当初から在籍する一番古い職員が言った。
「分かるよ。」
園長は語気を強めて言った。
「じゃ、園長お願いします。」
他の職員が言った。
「今もそうしてるでしょう。席を外してる時はどうかお願い。」
みんなを見回しながら言った。
「では、園長がいない時は、分けても良いですか。」
「だから、、、」
園長の説得は続いた。
私は学生時代に少しだけその先生のお仕事お手伝いをした。
会議の間、お昼寝できていない子を一人おんぶして、昼食で使った布類を洗濯していると、会議の内容が廊下にも漏れてできた。
どうにも居た堪れなくなった。

園長先生はいつも元気な声で、弾けるような笑顔が素敵な女性の先生だった。

しかし、関われば関わるほど園長の大変さもよく見えてきた。
歩み寄ればすぐ解決できそうなことが、何故か揉め事に発展してしまっていくのを何度も見てしまった。

閉園前の掃除をしながら、園長の泣いてる背中を何度か見かけた。
問題は園の事ばかりではないようだった。

私は当時、まだ子供すぎて何て声をかけて良いか全くわからなかった。
先生には笑っててもらわないと。そう思っていつも普段より明るく振舞っていた。

私では園長の助けなどには到底なれなかったが、
「いつもありがとう。十分だよ。」
そう言ってくれた。

「今日、子供ちと砂場で遊んでいる時、A君に、背中から洋服の中に泥を入れられて、あなたは途中から本気で怒ってたでしょう。ああいうのが良いの。」
デスクでコーヒーを飲みながら書類を書いている園長が言った。
「良かったのですか?怒らなきゃ良かったって思ってました。」
大人気なく怒ってしまった自覚があった私は、園長から見られていた事に少し気まずくなった。
「そんな事ないよ。最初は相手の気持ちがわからないから、あなたの反応を見てみんな笑うの。でもあなたは、それを見て、どこまで怒るべきか考えてたでしょう。みんなが、良くないことをしてしまったと反省してくれるまで、怒ることにしようと。」
園長はこちらを見てにっこり笑った。
「私は何も考えていませんよ。自然にですよ。途中から兄弟喧嘩のような感じでした。それにしても、A君は分かったかな?」
「分かったと思う。きっと。こういう、人と衝突したり人から怒られたり、小さな経験を沢山することが彼には大事なのよ。」
「そうなんですね。まあ、今回は私の精神年齢が児童レベルだっただけのような気がしますよ。」
「同じ目線って、結構大事。今日ずっと見てて、嬉しかったのよ。ありがとう。」
「いいえ。でもまあ、何となくお仕事出来てるなら良かった!」
「じゃあこの調子で!いいこいいこ。」
園長は私の頭を撫でた。
「わーい!園長先生に褒められた!」

退勤前のタイムカードを押しながらの何気ない会話で、いつも私は園長先生に救われていた。

そんな園長の顔。泣き出してしまいそうな優しい微笑み。
大学の専攻とは全く違う分野だったが、このお仕事をしているときの幸福度がとても高かったと、今ごろになって気付いた。

園長先生ありがとう。大事なことを一つ思い出せた気がします。
そんな事を思いながら次の像へ進んだ。


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