小説 雨上がりの博物館 2

ゆっくりと進みながら黒い壁を潜り抜けると、急に暗転した。スポットライトの下には一体の薬師如来像が佇んでいた。苦しみと悲しみを包み込むような優しいお顔だ。

暫く眺めてみる。するといつしか足音や物音が次第に薄くなり、そして、浮かんできたのは、お客様のある女性の顔。


私の仕事は、リフォーム業者の営業担当をしている。日頃はとあるショッピングモール内の一区画で、リフォームのご相談を受け付けたり、お店の通る方にチラシとティッシュを配っている。その女性は、私の配ったティッシュを受け取ってくれた人の一人だった。
その女性はおそらく1歳にまだなっていない赤ちゃんを背負って、買い物カゴを乗せたカートを押しながら私の前を通過した。次に通ったお爺さんに配り、軽く会釈をして顔をあげると、3メートルくらい先の通路で先ほどのお母さんが両手でカートの取っ手を握りしめたまま立ち止まっていた。

小学生の男の子の手を引く女性、素敵な帽子のお婆さん、中学校の体操服を着た男の子、、、何人か目の前を通り過ぎた。手に持っていたティッシュがなくなったので補充をしようと足元に置いてある箱からいくつか掴み取ろうと腰をかがめると、箱の隣に白いスニーカーが止まった。その白いスニーカーの細い脚を見上げると、女性が微かに潤んだ瞳で微笑んでいた。
「リフォームはご興味ございますか。」
「は、はい。そうなんです。子供部屋を。」
「そうでございましたか。では、お店の中でお伺いしますので、こちらへどうぞ。」
店内の椅子にご案内すると、そのお母さんは、背負っている赤ちゃんを降ろし、膝の上で抱きかかえた。
子供部屋に興味があるとはいいながら、佐藤様というその女性とは中々リフォームの話にはならなかった。お家のリフォームのことというよりは、子供たちや家族についてのお話ばかりだった。
「水田さん、どうしてご結婚されたんですか。」
「わ、私ですか?相手は業務命令、私は直感です。運です。そういうもんです。佐藤様は?」
「大学の同期です。同じ学部ではありませんでしたけど、吹奏楽のサークルで。」
「あ、そういうの素敵ですね。憧れます。」
「私はフルートで、夫はサックスで、、、、。」
、、、、
「水田さんはお子さんが赤ちゃんの時にどの様な音楽を聴かせていましたか?」
「何だったかな。」
もう10年近くも前の事で、あまり思い出せなかった。
「私、この前、赤ちゃん用のクラシックのCDを買いました。ご存知ですか?これなんです。」
そう言ってスマホで写真を見せえてくれた。かわいいレースの上に綺麗に並べられた何枚かのCDがあった。写真も上手だ。
「手をかけてしっかり子育てされているんですね。偉いですね。良いお耳が育つと良いですね。」
、、、、

時間ばかりが経っていく。本当はリフォームに興味がないのだろうと思い、申し訳程度の最低限のご案内をすると、最後の最後に急に顔色が変わった。
「もしご興味ございましたら、無料訪問見積もり、ご相談も行なっております。その際はご連絡ください。」
「この訪問は誰が来てくれるのですか。」
「日程にもよりますが、月曜日ですと大抵私がお伺いしています。でも、私より詳しい者がおりますので、月曜日以外の方がよろしいかと。」
「では月曜日で。水田さんにお願いします。」
正直、私はご訪問をあまりしたことがない。ほぼショッピングセンターのお店の中のお仕事を専任しているようなものだった。
「ええと、私より月曜日以外の日に担当しております山崎という者の方がお勧めですよ。」
「水田さんじゃないなら、今回は見積もり訪問いらないかな。」
そう言うと赤ちゃんを背負って帰り支度を始めた。
すると、
「水田が参ります。来週の月曜日の昼過ぎなどはいかがですか?」
「家にいます。大丈夫ですよ。」
「では承知しました。水田がお伺いします。」
店長が急に出て来て、勝手に予約を取り付けてしまった。

私がほんの少しだけ苦笑いの混じった笑顔で佐藤様のお見送りすませ、お店の中へ戻ると
「水田さん、あの方、お申し込みの可能性高いから、訪問の報告書をしっかり書いて提出してね。」
とニヤついた店長の変なプレッシャーに、一瞬だけ能面のような変顔をしてからため息をついた。

そして、次の月曜日。
春風が心地よい明るい午後、小学校のフェンス沿いを、ほぼ花びらが散ってしまった桜の木を横目にゆっくり歩いていた。透き通る様な青い空も心地よい。でも今日はその透明な空がどこか虚しく感じられた。
小学校の隣の公園にはベビーカーが沢山あった。古い駄菓子屋、米屋、金物屋を過ぎると、急に新しいお家が並んだ。そんな新興住宅地と古い街並みが混在する通りを眺めながら進んで行った。

佐藤様のお家は急な崖を背にして3件の並びが3段あるその一番上の真ん中の家だった。9件とも真新しい。
「やっぱり。」
嫌な予感は的中した。リフォームなどは到底必要なさそうだった。
なぜ私を呼んだのだろうか。

お家へ続く階段を登りながら、どんな報告書を書くことになるのかと思うと、もう帰りたくなったが、お約束なので仕方なく登って行った。2段目のお家を過ぎた登り階段に入ると、傾斜が急になった。そして、階段3段おきくらいに柵が置かれていた。まだ歩けない赤ちゃんには厳重すぎる柵だった。

「佐藤」
と書かれた表札の側のインターホンを押した。
柵越しに砂場が見えた。砂場には風車が2つ刺さっている。
後ろを振り返ると、二つの丘の間に、今歩いてきた道が、校庭が、そしてその奥に駅が見えた。中々の見晴らしだった。山登りを終えた後のような爽快感に浸っていると、女性の声がした。
「はい。」
少し驚いて、私は急に向きを返して、
「あ、こんにちは。先日お会いし、、、」
「水田さん、ちょっと待ってくださいね。」
佐藤さんは私を遮って言った。
玄関先のプランターには色々な色のパンジーが咲いていた。
その隣には車輪に少し泥の付いた赤い三輪車壁に立て掛けてあった。

リビングに通されると、佐藤さんは赤ちゃんを抱いて寝かしつけながら私の向かいに座った。お家は壁もドアも床以外全て明るい白で、開け放たれた大きな出窓にかかる白いカーテンがゆっくりとお部屋の中で旗めいていた。その後ろにキッチンと隣の部屋への閉まった戸あった。カーテンが一瞬大きく持ち上がる様に旗めいた時、ほのかにお香の香りがした。

私は早速本題に入り、お話を終えて早く帰社したかったが、今日もそうはいかなかった。中々終わらせてくれない。2時間も経ってしまった。流石に何かの宗教の勧誘なのかという考えが頭を過ぎり、段々とと怖くなってきた。

「佐藤さん、すみません。一つお尋ねして良いですか。私をなぜ呼んでくださったのですか。リフォームなんて、本当は最初から要らなかったでしょう。」
私は、佐藤さんに抱かれて寝ている赤ちゃんに話しかけるように尋ねた。


佐藤さん赤ちゃんの頭を撫で始め、2人で赤ちゃんの寝顔を暫く眺めた。
そして長い沈黙の後、
「ごめんなさい。ただただ、話したかったの。何となくそんな気がしたの。そんな声が聞こえた気がしたの。ごめんなさい。」
私は初めて会った時の、カートを握りしめて立ち尽くすこのお母さんの後ろ姿と、そして潤んだ瞳を思い出した。
我に返ると、佐藤さんの目からは滝のように涙が流れ落ちて、赤ちゃんを包んでいる水色の布を濡らし、濃い青い部分がどんどん広がって行った。

何て迷惑なんだろう。正直そう思った。
佐藤さんは、迷惑だと分かっていたのに、どうして私を呼んだのだろうか。私にはどうしても解せなかった。
「そうでしたか。お力になりたいのは山々ですが、業務がありますので。」
そう言いながら、少しずつ帰り支度を始めた。

支度が済んで身を起こすと、まだ佐藤さんは泣いていた。
「お近くに、お母さんやご親戚やお友達はいらっしゃらないのですか。」
「はい。私も主人も両親とも他界しています。一人っ子なので兄弟はいません。まだ引っ越してきたばかりで、中々お友達も。」
「そうでしたか。きっとお友達できますよ。公園にベビーカー沢山ありましたから。赤ちゃんも喜びます。」

そう言って席を立とうとしたが、このお母さんをこのままにして帰ったら、一生後悔することになるかもしれない。そんな気がした。

「まあ、でも、きっとこれも何かのご縁でしょう。お線香だけあげさせていただいて、失礼させていただきますね。」

「ありがとうございます。」

佐藤さんは少し驚いた表情をして私を見た。

戸を開けると、小さな和室に小さなお仏壇があった。その前に、小さなお位牌と骨壷の入った桜色の箱があった。

お線香を上げながら、このお母さんを思った。迷惑と分かっていても、非常事態に陥っている彼女には、どうにもできなかったのだろう。
手を合わせてしばらく拝んだ。目を開けると、線香の煙が、天使の輪のようになって広がったように見えた。
「きっと、お母さんが心配だったのでしょうね。」
「やはり、そうだったのかな。」
「そうですよ。ゆっくり、元気になって下さい。ご主人とお子様達のために。」
「では失礼します。」
「本当にごめんなさい。でも、ありがとうございました。」
佐藤さんは、苦しみと悲しみを包み込むような優しいお顔だった。

玄関先のドア柵を閉めていると、向こうの砂場が見えた。風はあまり強くないのに、風車がやけによく回っていた。
「お母さんから離れないでね。」
そう呟いて私は急な階段を降りた。

私が今見上げている薬師如来像には、そのお母さんの顔が浮かんでいた。

今頃は少し、元気になっているかな。あの日より以前は、きっと迷惑を被って私は腹を立てていただろう。でも、なぜか不思議と、怒りの感情は無かった。むしろ清々しいくらいだった。この清々しさは、自然体な自分を感じられたからかもしれない。

今のこの仕事はそもそも私に向いていたのだろうか。この仕事を続けた先に何があるのだろうか。よく分からなくなった。でも確かなことは、もっと私が納得できて、心から誰かに感謝されるようなお仕事に就いてみたい、そう思った。

全然迷惑などではなかった。

「ありがとうございます。」

そう心の中で呟いて、隣の銅像へ目を向けた。

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