初恋

友達の誕生日を祝して。

――。







――いつの間にか見上げていたぎらつく日差しに根負けして視線を元に戻すと、そこに広がっているエメラルドの海原、真珠のような砂浜。

 立ち並ぶ露店を物色する人々に賑わう雑踏をかきわけ歩みを進める。普段使いの冬物のジャケットは、いつの間にかアロハシャツ。

 やがて現れた急な階段を踏みしめるように歩く。この先に何かがある、予感に従って一段、また一段と踏み越える。

「――おっ、来たな」

 小高い丘の上に立つカフェの表で、通りの石畳にホースで散水していた見知った顔は朗らかに笑いかけた。

「ほらっ」

 出し口を指で絞られたホースで、顔に思いっきり水を浴びせられる。抗議の言葉も水の勢いに押し出され、ずぶぬれになった犬がそうするように顔を大きく横に振るう。水を吸った長い髪がうなじや頬にびたびたと跳ねた。

「ガール・フレンドが待ってるぞ」

 声にこたえるように飛沫にしみる目をそっと開くと、オープンテラスの白い椅子に彼女は座っていた。ストローをクリーム・ソーダが伝う。のどを小さく動かした女はホウと一息、怜悧な瞳をサングラスの下から覗かせて、小さく微笑んだ。

「随分と遅かったじゃない」

――。

「どうやら、私とあなたの二人きりってところかしら」

 特異点、そう呼ばれる現象がある。聖杯やそれに近い何か、それを用いた誰かが引き起こす変な状況だと、大ざっぱに認識している。

「これを引き起こしたのが誰で、どういう目的があるのかを突き止めるのがセオリーなんだけど」

 大きく脚を見せた装いと対照的に長い袖に隠れた指先と普段通りのようで、上半身を覆うのは黒白ツートンのコートではない、レース生地がどこか涼しげな薄い青のワンピース・ドレス。

 支払いをすまそうとカウンターに立ったが、カフェからは人気がふっと消え失せたまま。紙幣をレジスターの隙間にねじこんで、扉をくぐる。

「いい機会ね。あなたに淑女のエスコートのしかたというものを教えてあげましょう」

 目のくらむような日差しから手のひらで視界をかばうと、不意に視界に入った傍らの女はこれ見よがしにサングラスを光らせた。

――。

 普段通りであれば異変の余波で大小問わず奇妙なことがおこって、例えばニワトリが巨大化してワイバーンに公称されたりだとか、例えばトナカイマンが現れたりだとかするものなのだが、海沿いの町は賑わいこそ見せても穏やかなものだった。両手に持ったパインスティックの片方を女に平らげられるままに聞き込みを続けたが、さしたる手掛かりもない。

 太陽はあいも変わらず頂点でぎらついている。

「この辺りはだいたい見て回ったことだし……海へ出てみましょうか」

 それもそうだと歩みを早めようとすると、踏み出した足のすぐ目の前を女の鋭いつま先が縫い留めた。

「……あなたってとんだ野暮ね。レディに相応しい装いもさせないで海に繰り出させようだなんて、品性を疑ってしまうわ」

 女が細いアゴで指し示す先には、色とりどりの水着が陳列されたブティック。はじめからそう言えばいいものを……浮かんだ言葉をそっと胸にしまい、二人並んで敷居をまたぐ。

――。

「無難、普通、センスの欠如」

 どれがいい、そう切り出された候補の中から最も"目に毒"ではないものを選ぶと、女は眉をひそめて鼻で笑った。そしてこちらをそっと覗き込み、改めて小さく笑った。

「まあ、いいでしょう。逃げずに選んだのだから、今回は及第点をあげる」

――。

 照りつける光の反射できらめく砂浜は、街並みの賑わいと裏腹に人の行き交いもまばらで女の姿をなおのこと鮮烈に映していた。

「どうかして?」

 腰回りを空色のパレオで覆い、砂浜よりまぶしい白のビスチェで装った女が振り返る。膝辺りまで伸びる藤色の長髪を後ろにまとめた姿は新鮮で……少し、ほんのちょっとだけ扇情的で、色々と理由をこじつけて薄手のジャケットを羽織らせたのは正解だったなと、自分の頬の紅潮を自覚しながらうなずいた。

「……ふふ」

 ばしゃり、とぬるい水が顔にはねられた。しみる塩気もよそに目を薄く開くと、片足をあげて波打ち際に立っていた女がニコリとほほ笑んだ。

「素っ頓狂な顔! とっても暑そうだったから、気を遣ってあげたのに」

 太陽を背に見下ろす女の、逆光越しの嗜虐的な笑みに、自分の何かに火が付いた。水を吸った砂がざり、ざりと音を立てる。両手を濡らす、澄んだ水。

 ばしゃり、ばしゃりと、"気遣い"の応酬は続いた。

 太陽はいつまでも天高く、空に海原に自分と女を照らす。

――。




――。




――。

「なあ」

 果ての無い波打ち際を駆けまわり、互いを跳ねる砂とかかる水でびしゃびしゃにして、肩で息をして。

「どうしたの?」

 頬を紅潮させて覗き込む女の瞳をじっと見る。

「ありがとよ」

「本当にどうしたの、急に……」

「気は済んだ、もう十分だ」

 ピクリと肩を震わせて、"深海の底の底で共に戦い抜いた女"にも"今もカルデアで共に戦う女"にも似て、そのどちらでもない女は視線を小さく背けた。

「俺がここを作って、お前をつくった……だろ」

「……」

 小さな特異点を修復した時のことだ。そこはなんてことない小さな都市で、大したことのない黒幕を蹴散らして、"聖杯の欠片"を回収してカルデアに戻る間際……街並みの隙間から海の向こうへ続く橋を見た。

 海のかなたで戦った結局別れのあいさつを言えなかった女がふとよぎり、夏になる度にやかましくなる連中のように彼女もオフシーズンというものを満喫するのだろうかとふと思い、漠然と、適当に、夢へと落ちて。

「悪かったな、付き合わせて」

 日が沈む。オレンジ色の夕焼けが水平線を彩った。

 聖杯の欠片といっても、本当に小さなきれっぱしで、これを用いてひと悶着起こそうとした黒幕はワイバーンなんかを切り札にしていたぐらいで。

「サーヴァントってわけでも、ないんだろ」

「……ええ。あなたが夢見た、ずっと昔の記憶の似姿。あなたが今を夢とわかれば目が覚めるよりも早く消えてしまう程度の、そんな泡沫」

「……」

 つまるところ自分の記憶とか印象とかが生み出した、自分に都合のいいものでしかないというのなら。

「……たしかに私は、あなたの"そうあってほしい"から生まれました」

 でも、と女は付け足した。

「生まれてからの私は、私なりにこの瞬間を満喫したつもりですよ? あなたが思っているように、あなたのためだけのお人形さんなんてまっぴらですから」

「んな」

「わかりやすすぎるんですよ。後悔とか、恥じらいとか、顔に全部出てます」

「そうかよ……」

 これも結局自分が女にそう話させているだけかもしれない。でも今は、その言葉を受け止めていたかった。

「……もうすぐ夢が終わります。この一幕もこれでおしまい」

 一礼する女の額からサングラスがするりと滑り落ちる。咄嗟に拾い上げて顔をあげると、もうそこには誰もいなかった。

「さよなら、好きになった人」

 声だけが遠く響く。意識に靄がかかる。世界がゆらぐ。夜闇が波打ち際を黒く塗りつぶす……。

――。

「いったい何を願ってそうなるのかわからないけれど」

 顔なじみの職員はそう前置きをして、苦笑した。

「聖杯の欠片がサングラスとはね……」

「悪かったな」

 視線が思わず泳いでしまう。普段使いのジャケットの胸ポケットに、それは小さく主張しながら収まっている。

「いいよ、元があんまりにも微弱だったからリソースに変換するためのエネルギーが生み出せるそれ以上にかかって……要は割に合わないシロモノだったから」

「そういうもんなのか……」

 小さな町と一人の夢、特異点を二回も作れただけでも奇跡に近かったのかもしれない。そう思い、手のひらに転がした。

「そういうもんなのさ。ま、もう魔力反応もないただのサングラス。たっくんの好きに使いなよ」

「おい、誰がたっくんだ」

「ん? ……はは、所長のが移っちゃったかな」

「ああ……」

 その後も一言二言他のスタッフととりとめもなく話し、なあなあの空気のまま管制室を後にしてしまった。いいのだろうかとは思ったが、深く探られない気遣いがありがたかったのも事実だった。

――。

 ――水着剣豪だとかいう妙な言葉と、そこから始まった顛末にすっかり呑まれていたのも事実だし、いつの間にか足取りがわからなくなっていたことに気づかなかったのも自分の責任だ。
 それでも、"あの女"はこういう催しに日ごろ全く興味を示さず斜に構えていたのだからあんな夢を見てしまったのだと、あれからしばらく経った今ではそういう風に自分を納得させていたのに。なのにこんなものを見せられては話が違って、つまり、つまり……自分は少なからず、ムッとしているのだろう。

「よ」

 外の空気を吸いたいからと一人で散策している最中に出くわした、人だかりの中心のそれに、臆面もなく声をかけてしまった。

「――! ……」

 おそらくSPだろう、体格に恵まれた男たちの気配が鋭く刺さる。その中心にいる女の視線は、それ以上に。

「おい……」

「そらっ」

 身構えるSPの隙間を縫うように宙を舞ったそれは、女の羽織ったパーカーへと綺麗にはさまった。

「なっ、ラムダ様!? 貴様、なにを……」

「やめなさい」

「で、ですが……」

 狼狽するSPを冷たい視線で制し、女がつかつかと詰め寄る。普段と違って切り詰められた足のせいか、見上げる視線が新鮮だった。

「なんのつもり?」

「やるよ」

「……そう」

 女は襟元にかかったそれをたどたどしく手にしようとし、奮闘し、悪戦苦闘し、苛立たしげに見上げる視線を投げてきた。"しょうがねえ奴"と露骨に態度で示してやりながら、それを女の耳にかける。

「……礼は言わないわ、贈り物なんてありふれていますもの」

「だろうな」

「でも、どうして急に?」

「別に……浮かれ女にはよくお似合いだからな」

「……覚えてなさいよ」

「気が向いたらな」

「ふん……何を呆けているの、行くわよ」

「はっ、はい!」

 女を中心にした人だかりは次第に遠のいていく。その行く先はたしか、水天宮。

「要は、あいつがそこの、あー……水着剣豪ってわけだ」

 誰に言うでもなく独り言ち、自分が出てきた建造物、今まさに全員で攻略している真っ最中のファラオカジノの異様な威容をぼうっと眺める。

「浮かれやがって」

 小さく上がってしまった口角を意識してへの字に結び、カジノの喧噪へと再び飲み込まれていく。

 そっちがそのつもりなら、こっちもせいぜい夏を満喫してやろう。

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