新雪を濁す夢の名残

――フォウ、キュウ。フォーウフォウ。

 馴染み深い鳴き声と、鼻頭を舐められるしっとりした感覚。

――先輩?

 目を覚ますと、さかさまの少女が己を覗き込んでいた。


――。


「質問よろしいでしょうか、先輩」
「……なんだよ」
「ふー……お休みのようでしたが、通路で眠る理由が……クク、ちょっと。硬い床でないと眠れない性質なのですか?」

 天地逆さの少女は硬い表情を作ろうとしているものの、ぴくぴくと動く表情筋を誤魔化しきれていない。

「ああ、畳じゃないと眠れないんだ。ほっといてくれ」
「ふふ。たた……ジャパニーズカーペットですね。噂には聞いていました。なるほど……」
「くくっ、おまえ畳って言いそうになってたぞ」
「だってその、つい、ふふふ……」
「ふふ、おい、ハハハ、笑うなっての」

 片方の含み笑いにつられて微笑が漏れ、それが笑いの呼び水になる。二人してなにもない通路の真ん中でクツクツと、抑え込んだ笑いを止められない。
 初めて出会ったあの日、表情の乏しかった少女と、仏頂面を崩さなかった男。あれから一年半。決して短くない、駆け抜けた月日。

「先輩」
「ああ」
「……時間ですよ」
「……行くか」

――。

 エントランスを飛び出した二人の目に映る、雄大な景色。
 世界を焼き尽くした炎も消え失せた、一面の銀世界。

「うわあ……! せ、先輩! これが」
「……」

――巧は既にこの景色を知っている。最初のループ、最後まで相互理解には至らなかった不明の獣と駆け抜けた大地。

「よし、行こうぜ」
「はっはい!」

 それでもあの時、隣にこの少女はいなかった。置き去りにして一人いなくなる、そのつもりだった。


――。


「……以前、ドクターが言っていました」

 指定された座標、山麓を視界に捉える絶景を前にしばし呆けていたマシュが、不意に口を開いた。

「カルデアの外はいつも吹雪いているけど、ごく稀に空は晴れ、美しい星が見えるんだ、と」

 まっさらな雪と同じくらい晴れやかな白い雲間を裂いて現れた、鮮やかな青。

「それを――それをいつか、わたしが見る日がやってくると。何の確証もないのに、笑いながら。これが――」

 ゆっくりとおとがいを上げたマシュにつられ、巧も天を仰ぐ。いつの時代にも焼き滅ぼす光輪が広がっていたことすら忘れてしまいそうな、遮るもののない空と雲。

「これが――本当の空。わたしたちの時代の――わたしたちの地球」
「なあ、マシュ」
「はい、先輩」
「きっとこれが、ロマニの夢だったんだ」
「……夢」

 ユメ、ゆめ……小さく反芻するように呟き、マシュは視線を巧へと向けた。

「先輩。マスター・乾巧。貴方に夢は、ありますか……?」
「……」

 しばしの沈黙。ゴウと風が吹き、少女の髪をバタバタと撫でた。

「……ように」
「えっ……」
「お前がこれからも、生きて生きて、ずっと元気でいますように」
「せっ、先輩……!?」

 マシュは頬を抑えながら意味をなさない母音だけの声を漏らしていたが、その凝視に耐えられないと言わんばかりに背を向けて縮こまってしまった。

「ダメかよ」
「い、いえ……ダメではないのですが、なんでしょう、体中が急にムズムズしてきました……」
「……で、どうなんだよ」

 背を向けたまま振り向いたマシュはしかし、つい先日まで倒れたり起きたりを繰り返していた半死人だったとは思えない、血の通いきった真っ赤な頬を向けてふんにゃりと笑っていた。

「先輩……聞いてください」
「ああ」
「わっわたし、えと、どこからお話ししましょうか、いざとなると出てきませんね、ええと」
「どっからでもいいよ」
「……コフィンにわたしの座標が“帰ってきた”時から既に予兆はあったらしいのですが、60分の待ち時間をつかって自分の身体を改めて検査してもらったんです」
「……それで?」

 瞳を輝かせるその様子は勿体ぶる意味もなく、続く言葉に込められた感情を否応なく伝えていた。

「塩基配列も一般的ヒトと同様の規模になっていて、バイタルエラーも全てなくなっていて……その、つまり……先輩、ごめんなさい!」
「……なんでだよ」
「だってわたし、これからもたくさん、生きられます! 先輩の夢、ほんの先程叶えてしまいました!!」

 朗らかににこやかに、この空に負けないくらいのすがすがしい笑み。生きろという祈り、生きたいという願い。それを叶えた者がいたことを二人は知らない。知る必要も、きっと……。
――彼女のことを今この瞬間まで案じていながら、それでも巧はこの結末を薄々予感していた。アサシンの言葉が本当だとして、明日の命すら危うい少女が戦うために再び立っている筈はない。それこそ、奇跡でも起きない限りは。

「そりゃ……やったな」
「……はい。わたしは今、こうして生きていることに感謝しています。多くの人に助けられて、多くの人に励まされて、わたしはこの空を見ることができました」

 ふと、雲間から陽射しが二人の目を襲った。二人してかざした手をひさし代わりにして目を細めながら、それでも遠くの景色を見ることをやめはしない。

「……たいへんな一年。たいへんなオーダーでしたが、全てが得がたいものだった――」
「……」
「――先輩は、どうでしたか? あなたにとってグランドオーダーの旅は、どのようなものだったでしょう……?」

 顔を向け、答えを返すだろう人へおっかなびっくり視線を送ったマシュは、表情のない男のひさしを降ろしたその指先から、粉雪のような軌跡が流れていったような、そんな気がした。

「それはもちろん――きっとお前と同じだよ」
「――!」
「……だから、もう十分だ」

 顔を背ける瞬間に、男は確かに見てしまった。弾けるような笑顔が固まり、不安がにじみ出るそのさまを。

「なあ、マシュ」
「は、はい」
「“なんだって、俺は先輩なんだ”」
「え、先輩……?」
「どうしてだった、なあ、覚えてるか」

 忘れているはずはない、何故なら初めて会った日のやり取りだって、二人にとってはいつでも引っ張り出せる消えない思い出なのだから。意地の悪い問いをしたと、巧は改めて自己嫌悪に襲われる。それでも訊かなければいけない――そのためにここにきた。

「あなたは……あなたは、あの時までに出会ってきた人の中で、いちばん人間らしくて……まったく脅威を感じない、敵対する理由がない人だったから」
「……今でもそうか」
「そんなの……そんなのわかりません、だって先輩は」
「これからもずっと、お前の“先輩”は俺一人きりか」
「……」
「……」

――あなたにとってグランドオーダーの旅は、どのようなものだったでしょう……?
 おそらく、自分は彼女の望んだ答えからほど遠い言葉を投げつけている。質問に質問で返すのも人が悪いし、その内容もこれだ。それでも巧は答えを待つ。膝から下の感覚がなくなってきていた。未だ立てていることが、信じられなかった。

「……そんなの、嫌です」
「なんで」
「……だって、わたしたちの旅は続きます。とりあえずはあの地平線の彼方へ。それが叶ったらもっと先へ、さらに先へ――それが人間の、いえ、わたしたちの基本原則」

 隣に立っている男が灰色の異形と化していたのはいつからだったろうか。それでも――ヒトでなくても、彼は彼女にとってかけがえのない先輩だ。何故なら……。

「善き出会い、辛い別れ、数え切れないほどに繰り返してきたのはわたしたちが歩みを止めなかったから。生きている限り、進み続ける限り、これからだってずっと、わたしたちは出会いと別れを繰り返します」
「……」
「きっと“先輩”と呼べる人とも、また出会える日が訪れると思います。一人や二人ではありません、両手いっぱいで数え切れないかも……それどころか、私が“先輩”になることだって不思議ではないはずなんです。だって、“そんなことない”と諦めるなんて“つまらない”!」

 風はとっくに凪いでいるのに、何かが伝い落ちるようなサラサラとした音が止まらない。少女の視線は決して空から背かない。振り返ったらきっと、この景色を見るために開いた眼がにじんでしまうから。

「未来への不安も、悲嘆も、すべては希望の裏返しでした。だからまた、きっと多くの冒険が待っています! ――マイ・マスター」
「……」
「何が待っているかわからない、あなたが取り戻した新しい年に向かって――わたし、行ってきます」

――振り向いた少女の頬をとめどなく伝う雫。それでも、彼女は……

「世界中の洗濯物が真っ白になるように、みんながしあわせになりますように」
「――えっ」

――伝えるつもりはなかったのに、託すつもりなんてなかった、自分だけの夢だったのに。それでも彼女は今日一番のまぶしい笑顔で、きっとそのせいで、気持ちが緩んでしまったんだ。

「じゃあな、ほどほどにがんばれよ」

――ヒトを遠ざけていた寂しげな男も、ヒトの中に溶け込もうとあがいた孤独なケダモノも、もはや跡形もない。

 穏やかな風が舞い上がり、視界を覆う青空の中へと灰色を攫っていった。


――。







 企画日時から大幅に遅れて完成したことをこの場をお借りしお詫びいたします。お付き合いいただき、ありがとうございました。

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