――! 1

――噛み砕きたくなる程の憎悪、飲み込むのも躊躇われる不快感。鼻を刺す、憤怒に繋がる臭い。

――ヒトは嫌いだ。どこで、いつ、どのようにして。怨讐に至る原点どころか自分にまつわる記憶さえも、何も覚えていない。確かなことは一つ、自分が抱くこの殺意。故に何ら問題はない、これの他には何もいらない。

(――新宿? なんだ、真名が開示されないサーヴァント? ……アヴェンジャーの霊基反応!? たっくん、警戒を!)

――無数の臭い。ヒトの群れ……嗅ぎ慣れ、故にゆるし難い悪臭の中に、”わからない”ニオイが一つ。これはなんだ? 感じることを忘れて久しいこの感情は、なんというものだったか。

(先輩!)

――知らないニオイを遮る、ヒトの女。臭いが鼻先に漂う。
――殺してしまおう。

(召喚サークルから新規反応……連鎖召喚!?)

――直感で飛びかかろうとする己の身体が、直前で静止した。躊躇ではなく、危険を告げる本能。首筋に伸びる一筋の刃。
――己の後ろに、”誰か”がいる。

(なんだ!? 首のない……彼もサーヴァントなのか?)
(ドクターロマン、ダ・ヴィンチちゃん、狼に騎乗する英霊の伝承で何かアテはありますか!?)
(うん、該当する人物は幾らかいるのだけれど――)
(”新宿”に縁故がありアヴェンジャーの適性もあるとなると……てんでダメだ! マシュ、たっくん、一度召喚サークルから離れよう!)
(……変身!)
(先輩!?)

――瞬きの内に男の身体を鋼が包む。
――ヒトはどのような身なりをしていても臭いでわかる。そして獣の匂いも知っている。たとえ記憶がなかろうと、本能が教えてくれる。
――しかし、目の前に立ちはだかった男はなんだ。ヒトの臭いも獣の匂いも当てはまらない、知らないニオイ。

(おい犬っころ。お前のマスターだ)

――。

「よお、いたか」

――足音と何かを転がすような音、荒い息遣い。身構えながら、振り向かず耳だけを動かす。男、マスター、ヒトではないなにか。

「人理は救われた、らしいぞ。とっとと帰ったらどうだ」

――人理、ヒトの営み、その記憶。なんとおぞましくけがらわしいものか。そんなもののために戦ってやったつもりなど、毛頭ない。

「お前ら、結局何が新宿だったんだよ」

――シンジュク。己を指して誰もがそう呼ぶ。見当もつかず、しかし何かあった予感のする言葉。シンジュク。反芻し、男を見下ろす。いつかきっと、この男に連れまわされている内にその意味を知る日もあるだろうと抱いていた。淡い期待。

「――まあいいや。アヴェンジャー」

――引き摺る音の正体は、きっと男が”コイツ”と呼んでいた鉄の塊なのだろう。自走する二つの轍、聖杯が告げた”バイク”と異なり時折ヒトのカタチをとっていた、男以上によくわからないなにか。

「派手にやられてな、もうほとんどオンボロだ。ダメになる前に走らせてやろうと思ってよ」

――それは”コイツ”を指した言葉なのか、それとも。
――ゆっくりと振り向く。”燃え殻のような透明なニオイ”、別人であってほしかった声の方には、やはり男が立っていた。

「来るか、一緒に」

――男は力なく唇を動かした。“笑顔”、ヒトが喜びなどを伝える際に行う、表情の変化。己は……それを真似て、頬をすこし動かしてみた。


――。

――風に乗り、獣と男が疾駆する。雪原を切り裂き、真っ白な粉塵を巻き揚げる、二筋の軌跡。

「アヴェンジャー!」

――男が呼びかけ、応じ、唸る。

「あいつらのこと、よろしくな!」

――あいつら、”カルデア”に群れなす有象無象。御免被る。

「……頼んだ」

――不意に、男は変わっていた。いつものような銀と赤の鋼の姿ではない、灰色一色の異形。

――ああ、なんということはない。男はヒトでも獣でもない、知らない何かだった。
――それだけならば名無しのアーチャーや間の抜けたアサシンのように本能が叫び、遠ざけ、それで終わるはずだったが……彼は己が愛してやまなかった何かにどこか似ていた、それだけだ。それだけでいい。

――”コイツ”が一際加速する。決して追いつけなくはない速度、駆ける足を奮い立たせようとした瞬間、背中からぬっと手が伸びた。首のない男、主張のない彼が珍しく、己を制した。
――追いつくでもなく、足を止めるでもなく、そのままのスピードでただ、見届ける。

――白い風に灰色が混じっていく。それは振り返らず真っ直ぐに、突き抜ける。
――もう会うことはないだろう。しかし、決して悲しくは思わなかった。

――。

 世界は再び動き始めた。
 やがて人々は奇妙な体験を忘れていくのだろう。
 突然の理不尽に抱いた困惑も、興味も、関心も、いずれ何もかも全てが思い出に追いやられる。

 世界は回る。回る世界に置き去りにされるものもある。

 狼はそれが吠えるさまを見届けた。主を失い横倒しになり、力尽きたように煙をあげるバイク、灰色の風に溶けた彼の名残りを追い抜いて一筋の風は光を纏い……やがて、かき消えた。







14:30改稿済

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