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映画「キッズリターン」の解釈


北野映画は詳しくないし、今更感があるなぁと思っていましたが、
「座頭市」を観て、意見が180°どころか200°くらい変わってしまった。

「キッズリターン」を知ったのもほんのつい最近でオードリーが推していたからそれだけのことである。

何の映画なんだろ?誰の映画なんだろ?と思っていた所で、
つい最近北野武の映画だと、知った。

思ったことがいくつかあってまとめたいなぁと思ったのでまとめる。ブログとはそういうものか。

以下はネタバレありというか映画を見ているていで書きます。



シンジとマサルの話ではない

この話を追えば追うほど、シンジとマサルの話ではなく、

若者の感じる世界と大人が作っている世界にはズレが生じていて、見える部分ではなく見えない部分が大半を占めている。

ということが見えてくる話だと思っている。

社会は怖い

と言葉で言うのは簡単であるし、
じゃあどうすればいいのかは一切学校で教わらない。

真面目に生きても不真面目に生きても社会に出たらフラットで、
誰かに着いていくのも自由、何をするのも自由だから、その人にとって間違った道を選ぶ方が圧倒的に多い。

なんせ自由すぎるから。


ハヤシの話だと感じる

最も重要な人物はボクサーのハヤシで、
ことごとく社会の黒い部分や甘い蜜の部分を見せてくれる。

減量というボクサーにとって大きな障壁があるなかで、酒、タバコは当たり前であるし、
自身の落ちぶれを年のせいにする。

周りも期待していないし、あんまりハヤシとつるむなよとジムの会長もシンジに言う。
だが会長自身も負けたボクサーや減量できないボクサーを叱咤する。

社会の生き方をハヤシは教えようとしているのだが、
この落ちぶれたジムを象徴するように、
未来ある若者に酒タバコを勧め、しまいには下剤を使って完全に潰してしまう。

このジムのエースは恐らく須くハヤシによって潰されて来たのだろう。
またシンジの最後の試合でも会長が確かに消耗品扱いしている。

こういった中でもハヤシは辞めることなくジムに居続け、後で入ったシンジの同級生の不良も潰されることに想像が容易である。


全員が消耗品

これらのことを踏襲すると、

我々は全員が社会の消耗品として扱われていることがなんとなく見えてくる。

社会に入ったが最後、粉々に潰れるまで消耗させられて、「社会」だけが生きていく。

真面目な奴も不真面目な奴も関係なく、歯車として使われて捨てられる。


二人しか犠牲が出ない

だが、この話ではメインの人物としては二人しか犠牲が出ない。(あとは名も無いヤクザが二人の計四人)


死とは突然やってくるもので、平等にやってくるものでもある。

どこに行くのかは自由だからこそ、いつどこで亡くなるかは誰にもわからない。


だから消耗されないように生きている人が今日も生きている。




我々は生きている限り、まだ始まってもいないのかもしれない。


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