「上手い絵」は習得不可能なのではないか?

ウィトゲンシュタインの思想に触れて、ふと思ったことを書いていく

「犬」という一般名詞は飼えない

~ペットショップにて~
お客「犬をください」
店員「品種は何がよいでしょうか?」
お客「いえそういうのではなく犬をください」

品種を選んで具体化された存在をペットして飼うことはできるが、犬という一般名詞自体を飼うことはできない。
犬のカテゴリに含まれる品種の犬たちは、たしかに「犬」という一般名詞で統一的に(言葉的に)表現できる。しかしその逆はできない。
「犬」という一般名詞から具体的な品種や存在する個体に展開することはできない

犬にしても画力にしても、具体化し神秘的な概念を地上に下ろす営みが必要である。

一般名詞から物質が得られないなら、「上手い絵」という一般名詞にも同様のことが言えるのではないか?

「上手い絵」が描きたい。そう考えるときがある。
ただ「上手い絵」というのは一般名詞的であり、様々な具象と小道によってつながっているだけである。「上手い絵」というだけでは「一般名詞の犬を飼う」という意味合いに近く、およそ習得することはできない。地上に下ろす営みが必要になる。
地上に下ろす営みこそが「好きな絵師を見つけて真似する」などの具体的な実体を参考に描いていく行為なのかもしれない。

「上手い絵」が獲得できないならどうすればよいのか

現実。具体的な実体を参考にするしかない。
様々なイラストや創作活動で実体化・具体化された存在を見て「上手い絵」と一般名詞化できる(具体的な事象から上手い絵という一般名詞に小道が続く)。
そして「これは自分にとって上手い絵と一般名詞化できる」ものを集めて、それを順序に真似て同じように描ける必要がある。
「着彩がキレイだから」とか「デッサンが整っているから」では多分まだ不足している。それもまだ一般名詞的である。
「AとBの組み合わせをこの比率で隣接させることで(局所的だが)キレイな着彩になる」とか「各パーツバランスがいくつの比率だから(局所的だが)デッサンが整う」というような具体的な手順を積み上げていくしかないように思う。

これがきっと「上手い絵という一般名詞に惑わされず画力を高める」唯一の方法だと思う。
途方も無い。けど「上手い絵」という得体のしれない幻惑に惑わされることもなく歩みを続けられると信じている。

「上手い絵」という概念の限界は「何をイメージして上手い絵と言っているか」次第で決まる

「上手い絵は〜〜である」というのは自身の経験や知識からくる、限界のある定義である。上手い絵について述べるとき常に「自身は何をイメージして述べているのか?」ということを念頭に置く必要がある。
そうでなくては、それ以外の事例に出くわしたとき「これは上手い絵ではない」と断言し、認知のゆがみを発生させてしまうからである。
だからこそ「自身は何をイメージして述べているのか」を念頭に置いて「上手い絵」について述べる必要がある。現実に確かに存在しているので無いもののように取り扱うことこそが認識の狭さを表してしまうからである。
しかし同時に、そのように認識しなければ人は判断を行うことはできない。だからこそ「問い続ける」必要があると思う。
歩みを止めたら、固着になるのだ。
無論歩みを止めない探求者としての道はビジネス的には相性が悪い。流石に人によっては割り切りが必要だと感じる。

「上手い絵」という固着された原型(理念)

「上手い絵」とは人が個々に経験や知識によって編み出した理念だと考えられる。
ここから外れれば「上手くない絵」になる。

「上手い絵」とはその人自身が得た知識経験に依拠する。
デッサンができていることを上手い絵とイメージする人は、デッサンが崩れている絵を上手くない絵と評価する。
色彩バランスが整っていることを上手い絵とイメージする人は、色彩バランスが整っていない絵を上手くない絵と評価する。
ここでイメージという単語に着目しているのは、それこそ「その人自身が経験知識によって得た美的感覚の具体的な内容」であって、このイメージの外は評価できない・もしくはネガティブな評価を下す。

この固まったイメージから来る評価こそ「世界はこうあるべきである」という認知のゆがみを及ぼす。
「上手い絵にはこの要素が"絶対"含まれている」というように物理法則(≒諸要素は必ず含まれなければこの世に存在できない)のような思考を苗床に、まったく想定できない新しい概念を目の当たりにしたとき眼前の現実は否定される。

科学的検証法は「現状の理論はもっともらしい」という前提で疑い続ける。
現実に実体が存在すれば、現実を正として理論を変えようとする。

しかし思想は往々にして信仰的だ。「こうあるべきだと私は信じている」という思想の下、当てはまらない現実を見たとき「思想を変えようとせず、現実になんとか意味付け」しようとする。
そして意味付けを諦めたとき、当人はそれを否定する。「これは〜〜ではない」と。

じゃあこの枠組を更新し続ける必要はあるのか?人によってYESである。
正直、認知の枠組みを更新しなくても生きては行ける。先入観・偏見を持ち続けて思考を固着させることは楽だから、それはその人の生き方なので何も言えない。

もし「変わり続けたい」と思うのなら枠組みを更新し続ける努力を惜しまないほうがよい。
この『「変わり続けたい」と思うのなら枠組みを更新し続ける努力を惜しまないほうがよい』という思考も、新しい事物を学び、この枠組みを壊すことを努力する必要がある。

そして「思想は自身が行える(現実を通して得た)イメージのみを苗床にしている」ことを努々忘れてはならない。
イメージのレパートリーを増やし続け、そのレパートリーすべてに当てはまるような思想を変化させ続ける必要がある。

人は見方という枠組みの中で世界を見る

人は「見方」という枠組みで世界を認識する。それがないと認識したり評価したりできない。
世界は変化しなくても、見方を変化させることで世界が変化している「ように」見える。それは絶望かもしれないし、希望かもしれない。

けれど何より、見方の常なる変化に伴って、世界に対し常に驚きを覚えるようになる。
これが楽しい。

参考文献

分かりやすくて良い本だった
(現状哲学的な「読む」行為ができないので他者の解説に頼るしかない)

余談

批評してたり、ビジネス的に思想を利用している人は思想がどんどん先鋭化してしまうらしい。
先鋭化でビジネス価値が向上するから?違う思想になっちゃうとビジネス価値が変化しちゃうから?

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