知識はどこでまとめる?なんのためにまとめる?

どこでまとめる?

候補としては、Twitter(モーメント)、wiki、はてな、Note
Twitterであれば気軽さがある。
wikiではページ分けや独自に情報を詰めれるので応用が利く。
はてな、Noteはしっかり整った記事としてアウトプットすると良いかも。

まとめる場所が複数なのは良い悪い?

あまり良くないと考える。
が、サービスごとにコンセプトが存在しており「○○にはこのサービスが最適」となる場合が存在する。
そのため、最適化されたサービスを活用しつつ、目次や何かしらの窓口を作っておくと楽かも。プログラミングでいうFacadeパターン。
分量が少なかったり、1つのサービスで事足りてしまうのであれば、1つのサービスにまとめる。
情報量が増えたり最適なサービスが複数ある場合はFacadeパターンで情報を管理する。細かい情報IOはFacade先のサービスに任せる。
--2019/06/10追記
でも結構窓口(Facade)で新規で生えたリンク先が貼られていなかったり、概要文が古かったりメンテされていない場合もある。それは別途考える必要がある
--追記ここまで

なんのためにまとめる?

思考の整理の為に。
結論に至るまでの脳内反論と、その反論を書いていく。

反論1:書いても読む人(自分含む)がいなければ、存在価値が無いのではないか
誰かの役に立たなければ、書く意味がないという視点にこの反論は立つ。
確かに、誰かに読まれなければその記事は新しい知識を誰にも供給しない。技術記事であればなおさら。
それに対しての反論は「見返されず読まれないにしても、思考を整頓しアウトプットすることで、脳内リソースを解放する」とする。

「これは覚えておかないと」「いつか役に立つ」と思って、いつまでも脳内リソースを圧迫すると、新しい情報を得る余裕が得られない。ならばアウトプットして脳内リソースを解放、新しい情報を得るための土台にする。

また忘れ、再度思い出すときも情報が整っていれば(その情報をまとめたことを忘れたとしても)時間短縮につながる。書いたことを忘れても「体系的にまとめた経験」は忘れないと考える。そのため再度思い出す時も、記事をまとめることが有用になる。

反論2:自分が見直すためにまとめた記事。それを見直さなければ、まとめた時間はただの時間浪費なのでは?

プライベートで常にメモを取り、読みやすくまとめる。これにはコストがかかる。しかしそれを適切なタイミングで有効活用出来なければ時間の無駄になるのではないか?という内容を、この反論は含む。

私もログを取ることが好きで、気が向いたらログをまとめることをする。
しかしそれをメンテナンスせずに放置、見直さないことは多い。
それでも「思考の整理」という観点では必要だと考える。
また「自身が活用できる範囲=能力のすべて」と定義してしまうと、成長の余地が縮まってしまう。無理にでも成長余地を増やしたいのであれば、思考の整理や情報の整理は、やはり必要であると考える。

反論3:経験は忘れる。放置され埃をかぶった情報は無益なので、いっそのこと捨てるべきではないか
長らく放置されると経験であっても忘れてしまう。情報も膨大になれば見られる場所も限られ、見られない場所が出てくる。そのような見られない場所は存在していようが意味を成さないもの。よって不要なのではないか。

知り得た知識でも、活用しなければ結局不要という思考は、知識の視野狭窄に陥る危険性があると考える。「活用できない=不要」論は思考の幅を狭めるという立場に私は立つ。
事実、知識とは突拍子もない所で活用される場合が往々にして存在する。
そして、あまり活用されない知識は直ぐに忘れてしまう。それを「自分なりに消化するために、記事にする」行為は大変重要だと思う。これを行うことで思考のプロセスを挟み、消化行為を行うことで応用する機会を増やすことができる。別分野から引っ張ってきた知識を、自身のメイン分野に応用する成功パターンは多く見受けられる。その土壌を築くためにも必要だと考える。

反論4:他の人々が同じテーマで良質な記事を多く書いている。それを閲覧すれば済むことなのではないか
同じテーマを大小問わず他の人が書いている記事がある。これを閲覧すれば問題は解決するので、自分で記事を書くのは無益なのではないか。
また他の人のアウトプットに優れた、整った記事の方が閲覧者も負担が少ない。その記事と同じテーマで推敲もしない日記のような、検索妨害になるような記事を書くのは無益どころが害になるのではないか。

これは新しく記事を書くときの心配ごと(他人が良質な記事を書いている)や、益の無い記事を批判(検索妨害)するときに良く使われている。
これに対しての反論としては以下の2点の主張がある。
1、記事とは経験値視点思考さまざまな要素から出来ているものであり、同じテーマでも違う要素で説明が行える。これによりネットでの集合知がより強固な物になる。
2、その技術や事象の発展には質だけでなく、量が必要である。それは有益度がたとえ低くても量を確保し、全体母数を増やすことでよりレベルの高い記事や人物を呼び寄せるきっかけに十分なり得る。益があろうとなかろうと「見えているものが全て」であり、見えなければ存在しないと同義とされるのである。まず見えるようにする必要がある。十分に母数が多いならば、1で述べた集合知の強化になる。

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