【2023年度哲学思想研究会部誌収録文章】時間、空間、あるいは季節感
大島昴
※注意書き※
この寄稿文は私が哲学思想研究会とは別にメンバーとして活動している同人ゲーム制作サークル、「セイランソフト(Twitter:@SEIRANSOFT)」のCi-enというサイトに記事として書いたものを加筆修正したものになります。個人的な宣伝になってしまい申し訳ありませんが、今回の内容をさらに詳細にまとめた補足記事などもそちらに掲載する予定なので、興味があればぜひともそちらもご覧いただけると嬉しいです。
本文
突然ですが皆さんは俳句や短歌を詠むことはありますでしょうか。私は短歌を詠むのが趣味です。
と言ってもそんな毎日意識して作っているわけでもなく、何となく一句詠めそうだなぁと思ったタイミングで不定期に作っています。一カ月に一つどころか、半年に一つレベルです。
…それは趣味の域ですらないのでは? まあ気にしないこととしましょう。
この俳句や短歌なのですが、少しでも興味があるのならやってみることをお勧めします。というのも、これをやっていると日常に対しての感性を磨くいい練習になると個人的に思うからです。
日常の小さな発見や出来事を豊かに感じ取れるということは豊かな表現に直結します。しかしこれはやろうと思ってもなかなかできないものですよね。感性とは大抵勝手に培われていくものであまり意識的にどうこうするというものではない気がします。それは創作をする人ほど良くわかるものではないでしょうか。
そこで俳句や短歌というわけです。一句詠むという意識は日常にアンテナを張る良い指標になってくれます。もし表現力や感性を鍛えたいと思っている方がいればぜひ俳句短歌をお勧めします。しかし何事も興味がなければ続きませんので、もし興味があればと念を押しておきましょう。何事も意味を成すのは継続の後ですから。
とはいえこれが今回の主題ではないです。関連は有りますが。
実はここまで前置き
再び突然ですが皆さんは夏と言えば何を思い浮かべますか? まあそれは色々とあるでしょう。暑いとか、かき氷とか、お祭りとか。
これは最近気づいたことなのですが、私にとっての夏の象徴は蝉なんじゃないかと思ったのです。あくまでも「私にとっての」ですが。というのも、それこそ今まで作った短歌を見返していると結構な頻度で蝉が登場するわけです。特に意識しているわけでもないはずなのですが。
確かに考えてみれば、蝉というものは夏を実感するにはすごく良いものであるように思えます。蝉という言葉を聞いて虫としての蝉の姿だけを思い浮かべるでしょうか。それ以上にあの鳴き声が思い出されるような気がします。
姿というのは思い浮かべるときは大抵一瞬を切り取った写真のような、画像的なものをイメージします。一方鳴き声、つまり音の場合時間的な伸びのある感覚を呼び覚ますでしょう。
この時間的な伸びが季節感を強調してくれます。鳴き声を思い起こす時間の流れの中で夏のあの温度感や涼しく吹き抜ける風などさまざまなものが連想される。音一つでここまでの厚みを持つのです。この厚みは一瞬を切り取った画像的なものにはないものでしょう。
なるほど時間的な伸びが表現に厚みを持たせるらしいとのことですが、では逆の場合はどうでしょうか。それはつまり先ほど挙げた、姿のような一瞬を切り取った画像的なもののことです。
時間的な伸びに対比させて言うなら、これは空間的な広がりということができるでしょう。蝉の姿を思い浮かべるとして何もない空間にポツンと蝉だけを置こうとするのは、まあ蝉専門の昆虫学者か標本のコレクターぐらいのものでしょう。基本的には木に止まっている姿か、道端で力尽きている姿か、はたまた例のセミファイナルの暴れっぷりか。何にせよ蝉単独ではなく、必ず何か他の物を伴います。それはまさに蝉が空間を拡張していると言えるでしょう。
こうして拡張された空間はそれぞれの人の想像力によって補完されます。それも蝉が夏の風物詩であることを理解しているならば、それぞれの思う夏感によって装飾されるはずです。例えば蝉が木に止まっている姿を想像したとして時間帯は恐らく昼、しかも強い日が差しているはずです。昼間の強い日差しは夏を強調する一つの小道具です。つまり各々の想像力によって勝手に季節感が増幅していくような効果があるのが空間の広がりと言えるでしょう。
さて、蝉そのものに話題を戻しましょう。以上のことから蝉という存在はその姿から空間的な広がりがあり、その鳴き声によって時間的な伸びがある。この立体的な想像力を掻き立てるということが夏の象徴として私の心に残っているのではないか……と思うわけです。
まあここまで話しておいてあれですが、あくまでも私の感覚の話です。皆さんにとっての夏の象徴は一体どんなものでしょうか。そしてそれはなぜあなたの心に強く印象を残しているのでしょうか。以上のことを応用してみれば何か見えてくるかもしれませんね。実際どうだか、やってみなければわかりませんが。
とはいえ、文章表現の中で季節感をいかに出すかといった場面ではヒントになるやもしれません。頭の片隅に留めておく程度にしておきましょう。
てなわけで、締めに例の蝉を使った一句でも
鳴く蝉の
音近けれど
姿無く
出会う頃には
もはや鳴き骸
蝉の鳴き声がしても案外その姿は見えないものです。そうしてようやく相見えたときには大抵、もはや声を使い果たした「鳴き骸」があるのみなのです。
というわけで、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。それではまたどこかで。
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